第六章 修道服を脱ぎ捨てよ
こうして、私は神学院に堂々と入学する準備を進めた。
入学許可を伝える電報がローマから着くと、病み上がりの母はまた泣き出したが、私はこれで子供時代の家を離れられると、安堵の溜息をついた。
もう二度と郷里に戻ることはない。ローマでは、私が司祭職を受け入れるときに専任となる教授と、実に面白い話を交わした。
彼は、我々のネットワークの一員だったのだ。彼は非常に楽観的な考えを持っていた。特に、聖書に通じ、聖書を英訳し直す仕事に取り組んでいた。
もっとも驚かされたのは、彼がこの仕事の唯一の協力者に選んだのが、ルーテル派の牧師だったことだ。牧師は、古代の遺物に思える自分の母教会とは、すでに袂を分かっていた。
この協力体制は、もちろん極秘である。聖書、特に新約聖書から引き出されるカトリックの教理体系を、全部除こうというのが、彼ら二人の目的だった。
マリアの処女性、御聖体におけるキリストの現存、そして復活は、彼らによれば、完全に始末するべき課題であった。人間の尊厳は、それだけの犠牲を払う価値がある。
教授は、合理的なミサの挙げ方を私に伝授した。今後六年で、私自らがそれを挙げることになるからだ。彼は、奉献のことばを一切発音しなかった。だが、少しも怪しまれぬよう、少なくとも語尾だけは、ほとんど類似する言葉を発音していた。
彼は、同じことをするよう私に助言した。ミサをイエズスの犠牲のように思わせるものすべてを、僅かづつ、僅かづつ削除するのだ。こうなれば、ミサ全体は、プロテスタントの聖餐式と同じく、ただの食事会と化す。彼は、これしか方法はないとさえ言った。
彼はまた、新しいミサの秩序を考案するのに忙しくし、私にも同じことをするように言った。色々に違ったミサを民衆に提供することが何としても望ましい、と彼は考えていた。
家族や小グループには、ごく短いミサ、祝日にはより長いミサがある。だが、彼によれば、労働者階級にとっての真の祝いは、自然の中での散歩だった。日曜日を、自然に捧げられた日と考えさせるところにまで漕ぎ付けるのは容易だ、と彼は考えていた。
彼は、仕事上、ユダヤやイスラム、東洋や他の宗教の面倒まで見る時間はもてないが、その仕事は非常に重要で、自分の取り組んでいる聖書の新しい翻訳以上に大事なものになるだろう、と言った。そして、人間を最大限高め推奨する要素を、キリスト教以外のすべての宗教から探し出すよう、私に助言した。
私は、自分のように党に関わっている、他の神学者や学生について話してくれるよう求めたが、彼は知らない振りをした。それでも、あるフランス人の住所を教えてくれた。彼は聖歌の教授で、私が退屈な勉強をするために六年行かなければならない町に住んでいた。
この男は完全に信頼できる、たっぷり金を払えば、俗人の衣類を彼の家においておくなど、慎重な配慮をしてくれるだろうとも保証した。
もちろん、彼は、それ以外にも、ローマ中を案内して回り、この町で一番敬われている聖人たちの伝説についても披露してくれた。
聖人の名をすべて暦から消し去る必要がある。これもまた、われわれの目標の一つだ。だが、われわれは、神を始末するよりも、聖人全員を始末することのほうが、はるかに時間のかかることを知っていた。
ある日、カフェテラスで休んでいたときに、彼は私にこう言った。
「この街から、宗教服がひとつ残らず消え去ったときのことを想像してみろ、男も女もだ。何という空虚。何と素晴らしい空虚! 私は、ここローマで、修道衣がいかに重要なものであるかを知ったのだ。どの街角からも、教会からも、それが消え去ると誓おう。外套を着ながらでも、ミサは簡単に挙げられるのだ」
修道服のない街を想像することに始まる、この小さな勝負は、私にとって一種の反射行動になった。私は、この黒い僧服に絶えず憎悪を燃やすようになった。
修道服は何も語らないが、何と雄弁な言語だろう。修道服はどれも、信徒にも、未信徒にも、それに身を包んでいる者が、見えざる神に捧げられていることを告げているのだ。
この滑稽な衣を着ざるを得なくなったときに、私は二つのことを自分に約束した。
司祭への召し出しが、なぜ、どのようにして、若者たちに来たのかを理解すること。第二に、修道服を脱ぎたいという気持ちを修道士に起こさせることである。
私は、この目的に大きな情熱を燃やすことを自分に誓った。自分にとっては、これは比較的容易なことだ。だが、若者たちに召し出しが起こる理由が理解できなかった。
召し出しは、とても真実とは信じられないほど簡単に起こる。だが、四歳から十歳の少年たちが共感する司祭を知ると、その司祭を模倣したい気持ちに駆られるという話は、本当のようだ。
修道服に対する自分の憎悪が、その瞬間に理解できた。俗人と違う生き方をしている合図を出さなければ、それが本当であれ、想像上のものであれ、子供たちは司祭の力を感じ取ったりはしないはずなのだ。
違いをつくりだしている一つがコスチュームである。コスチュームは、それを着ている人間の教えをすべて物語っているとさえ言える。
私にとって、修道服は、全能と称される神と、歩くたびに賜物と区別をちらつかせるこの男たちが、結婚していることを示すものだった。
それを思えば思うほど、怒りが込み上げてきた。だが、子供時代と思春期を、カトリック信仰の篤い家で過ごせたことは幸いだった。
私は、偽司祭としての自分の価値は、このことから来ていると信じている。私は、経験からそれを知ったのだ。
私は最高の工作員になろうと思った。このやりがいのある仕事の最高指導者になるのだ。嬉しさが込み上げてきた。
俗人と変わらぬ生活をする司祭たちに会えば、子供は彼らを模倣したいとは思わなくなるだろう。彼らは「誰をも」見なければならなくなる。こうして、司祭から遠く引き離すことができる。 真に模倣すべき人間の選択は、それほど大きなものなのだ。
万人に向けて解放されるべき、この「普遍教会」に所属する新司祭は、均一であってはならない。
彼らは同じ教えを説かなくなる。少なくとも、神学面で協調できなくなれば、各自の支持者は数えるほどになる。
彼らは、横で監視しているわれわれの仲間にびくつくようになる。要するに、彼らに唯一合意できるのは、博愛の問題だけになる。
こうして、ついに神はいなくなるのだ。
結局のところ、これはそんなに難しい問題ではない。こんな方法を、どうしてこれまで誰も考え出せずにいたのか不思議だ。ある花が開くのに適した世紀があるということなのだろう。
神学校での最初の生活は、もっとも楽しいものだった。
戦争より神への奉仕を選んだ、富豪の最愛の一人息子という履歴が、私をみなの関心の的にした。誰もが、勇敢なポーランド人青年に共感を見せた。
私にとって、神の栄光は祖国よりも尊いのだと誰もが言った。「何という聖性だろうか」と。私は、謙遜を装って、彼らを言わせるままにしておいた。
私は、何事においても一番になると自分に約束した。
語学力は天才的だった。私は、ラテン語とギリシャ語を必死になって勉強した。
また、フランス人の友人と共に聖歌の特訓をした。
この神学校は全く厳格ではなかった。性格形成についてもうるさくなかった。
競技でも力を発揮したが、日本伝来の素手で戦う技は人には見せなかった。簡単にいえば、何もかもうまく行ったので、面白くなくなり、刺激を求めだしていたのである。
自分がもっとも心を引かれる教授に告解しに行こうと思い立ったのもそのためだ。
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