第十三章 秘蹟破壊指令
新カテキズム --- これは人間の宗教のカテキズムと呼んでも良いものだ --- に携わる中で、私は、一連の要理を作成して、その都度修正と制限を加えるのが好ましいことに気がついた。人間の心が徐々にそれに慣れてくるようにするためだ。
最初の版で、使徒信条の二ヶ条を控え目に修正しなければならない。
まず、「カトリック」の語を「普遍」に差し替えなければならない。これは、いずれも同じ意味だ。この「カトリック」という語によって、プロテスタントが気分を害したり、ローマ典礼の信者たちが、自分をスーパー・クリスチャンと思い込んではならない。
あとで、聖人崇拝も禁止する。神を抹殺することの方がずっと容易であるとはいえ、それ以前に、聖人たちを抹殺せねばならない。
当面は、次のやり方に従う。まずは、正式に認められてはいない聖人、たいしたことをしていない聖人たちをみな抹消する。
それから、宗教改革に対抗した聖人たちも、みな排除する。彼らは、「キリスト者の和解」が全員のテーマになっている今の時代には関係ない。
あとで、最大の異端者たち、特に、ローマ教会に一番の憎悪を燃やした者たちを、深い同情と涙をもって、丁寧に復活させ、列福、さらには列聖にもってゆく。
例えば、マルチン・ルターなどを、まず最初に祭り上げさせるべきである。そして、カトリックの側に何の反応もなければ --- 不愉快に思わなければという意味だ --- この面でのわれわれの活動は、いつも通りの間隔を置いて、慎重に、控え目に進める。
それから勢いをかけて、審判、天国、地獄、煉獄の観念も葬り去る。その方がずっと容易だ。
多くの者は、神の愛はどんな敵意も超えていると信じる習慣がついている。われわれは、この愛を強調しさえすればいい。恐れる必要のない神は、いずれ考慮に値しない神になる。
これこそ、われわれの大目標なのだ。それから、神の十戒は保たせても、教会に対する六戒は抑えなければならない。これほど滑稽なものもない。
教会の六戒を削ることについていえば、大人になったクリスチャン、信徒が金曜日に肉を食べるかどうか気にしないほど、神が大きな存在であることを知っているクリスチャンを、称えなければならない。
一年告解について言えば、司祭が下層階級に対してありふれた犯罪を並べ立てる社交儀礼に差し替える。この種の罪に人々の注意を喚起することが必要だ。
個人的告解は時間の浪費だ。逆に、私が夢に描いている儀式は、心を慣らして、素晴らしい成果を生むことだろう。だが、これには、十分訓練された司祭が必要になる。
日曜日に義務付けられたミサについていえば、現代人には、新鮮な空気と緑の中に入ることが必要なので、土日は自然の中に入るのが望ましいと言えば十分だ。
あくまでミサに固執する者たちには、日曜にではなく金曜を選ぶ権利を与える。金曜の晩が相応しいが、その晩に遠出する者たちは別だ。彼らには木曜日を選ばせる。
最終的には、何より優先すべきは自分の良心に従うことだと教え込む。
「良心に従う」。このプロテスタントの発想は実に素晴らしい。これによって、他を不愉快にさせる規則を出せなくなり、自由気ままを許す規則に差し替えられるようになる。
超自然的な生命と恩寵に関わるものは、無論、すべて消し去る。このような観念は危険だ。
「天にまします」の祈りは、しばらくは保たれるが、「神」というより親しめる言葉を使わざるを得なくする。
その口実を作ってくれるのが、プロテスタントとの共同で、共通の言語に訳し変えた新聖書をすべての国で採用することだ。
それは、過去四世紀にわたるカトリックの傲慢の罪を償う手段になる。
この新しい翻訳が、年長者の信徒を不愉快にさせたとしても、構うことはない。当然予見できることだ。
次にすべきは、七つの秘蹟の全改訂である。プロテスタントには、秘蹟が二つしかないからだ。
キリスト教諸派はみな洗礼を守っているが、これは真先に消し去らねばならない秘蹟だ。それは比較的容易だろう。秘蹟は子供騙しだ。十字の印や聖水と同じほど子供っぽい。
まず洗礼は大人だけ、それなしには生きられないと信じる者だけに限定する。
いったいどこからこんな考えが湧いてくるのか分からない。私は天才なのだ。毛穴のすべてから天才が吹きでてくるようだ。
むろん、洗礼によって原罪が無くなるという考えも抹消しなければならない。罪は、純文学的な創作に過ぎないのだから。アダムとイブの物語は語ってもいいが、笑う材料としてだ。
洗礼は「普遍キリスト教」に属するしるしに過ぎず、誰でも洗礼を授けることができるが、全員が洗礼を受けなくとも一向に構わないと教え込む。
われわれは、非キリスト教諸宗教に生きる聖なる魂を称えるために、これを利用しなければならない。これによって、彼らは罪責感に囚われるようになる。
実に素晴らしい考えだ。
当然、聖霊を信じ、司教にしか行えない「堅信礼」は、何としても抹消しなければならない。
この態度によって、ユダヤ人とイスラム教徒ばかりか、新プロテスタントを不快にする三位一体のドグマが、公然と非難されるようになる。聖木曜日に聖油を祝別する必要はなくなるだろう。これはまるで魔法の行為だ。
儀式その他の外面的な行為なしでも信仰を保てることに注意する必要がある。この信仰の方が気高いのだから。われわれはまた、異教徒、ユダヤ人、イスラム教徒、共産主義者の間にも見られる優れた徳を、強く訴えなければならない。自分たちの教会に、他教会より多くの聖人がいることを恥じているカトリック信徒もいるからだ。
改悛の秘蹟については、経験ある指導司祭による、良心の吟味しか行わない社会儀礼に差し替え、のちに一部のプロテスタント教会で行われているような、全般的免償に変える。
現代の司祭は、終わりのない告解の時間と、そこから来る重荷を除かれるようになる。この共同体告解は、年に二度、イースターとクリスマスに行う。
若い司祭たちは、厳格な社会主義思想を叩き込まれるようになるだろう。社会的罪を詳しく調べる中で、人々の心をマルクス主義に向けることが彼らの目標になるのだ。
他人に対する正義の欠如だけが、懺悔の動機になる。人間を信頼する者がキリスト教徒であることを、すべての者に確信させなければならない。
誰もが自分にこの問いかけをするようになるだろう。「他の人々は私を信頼できるだろうか。」
この儀式では、神という語は使われない。いずれにせよ、「秘蹟」と呼ばれなくなるのだ。秘蹟という語も抹殺しなければならない。
むろん、免償について語る者は、一人もいなくなるだろう。この語の意味するものさえ知る者はいなくなるのだ。
終油の秘蹟(Sacrament of Extreme Unction)について言えば、それに代わる別の語を見つけ出す必要がある。これは病人に直接関わるものなので、刷新の当初からそれを除くことはできまい。
だが、永遠のいのち、審判、天国、煉獄、地獄といった観念を、癒されたいという願望に置き換えるようにしなければならない。
そのうち、医師が治療の職務を遂行する上で、司祭の手を必要としないことを分からせる。
「病者の秘蹟(Sacrament of the Sick)」という表現を選ぶことになるだろう。永遠の生命という考えを避けるために、軽い病気のときにもこの秘蹟を許すようにする。
とはいえ、私は何も心配はしていない。秘蹟はみな、姿を消すようになるだろう。誰もこんなことに時間をとらなくなるだろう。
聖職者に力を与える修道会の秘蹟については、それは保持しておこう。普遍教会では、社会主義政策のために働く教師となる司祭が必要になるからだ。
これらの司祭たちは、例えば、童話を使って祭りをつくりだせる。民衆には祭りが必要だからだ。
だが、これらの祭りは、まったく人間のためのものであり、どんな神をも暗示するものであってはならない。
結婚は不要な秘蹟ではないが、家族の祝い事にのみ留まるという条件が付く。
宗教的結婚だけが唯一正しい結婚であるという旧いものの考え方を、みな排除してしまわなければならない。民間の結婚だけを唯一必要なものとすべきである。
こうすれば、権威あるこの教会も、離婚と離婚者の再婚を禁じることはできなくなるだろう。ナザレのイエスが、この意見に反対する言葉を出しているのはよく知っているが、現代人に適した教えだけをどう選ぶかについて、すでに指令は出してある。
結婚に縛られることは、人間の幸せを損なう重荷だ。子供の幸せを云々する者たちは、子供は国家に属するときこそ、ずっと幸せになることを忘れているのだ。むろん、司祭が結婚を望めば、彼らにも結婚ができるようにさせる。修道会の秘蹟は女たちにも開かせる。
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