第十四章 人間の栄光
聖餐の秘蹟を徹底的に調べる始める前に、私は自分の成果を、学生の文通相手と「黒髪」に郵送した。
学生は非常に熱心になり、ある日大学で私に接触を求め、一連の文書を手渡した。
彼は、顔を火照らせて、これらに評論を加え、是非とも出版して欲しいと頼んだ。
原則的には、私たちは人前では話を交わしてはならなかったのだが、戦争のことを考えて、ことを起こさなければならないと考えた。
学生と人前で話し、文書を交換しても危険はなかった。
大学で二つの講座を正式に取るや否や、バイクを購入し、ほっとした。これで、他の生徒たちと一緒に遠出をしなくて済む。
学生の論文は、実に素晴らしいものだった。自分には作家の才能がなかったので、嫉妬さえしたほどだ。
だが、まもなく、この流暢な論文が、どれほど大きな力になってくれるかを、知るようになった。
われわれは理想的な協力関係を築いた。私は、堅い論理でアイデアを提供し、彼がその中から一番いい所、少なくとも彼の立派な論文を鼓舞する部分を選別するのだ。
自分の考えが文学に花開かせると思うだけで、才能が刺激された。この連携プレーでは、天才は私であり彼は芸人に過ぎない。
自分の発案になる論文をかなりの稿料で定期的に掲載してくれる評論も、すぐに見つかった。
私は、それらを戦争をしていないすべての国々に送付し、翻訳と普及を依頼した。
だが、戦争が終結するまでは、さほど成果が上がらないことを認めなければならなかった。
学生には、上から押し付けられた教授以上の信頼を置いていたので、もう一つの私書箱を作り、その鍵を手渡した。
彼は十分な報酬を受けていたので、私のことを神様のように思った。私のためなら、命さえ惜しまない男だ。
「黒髪」から音沙汰がなかったので、自分の考えを反映したものだとの説明を付けて、学生の論文を彼女にも定期的に送ってやった。
「黒髪」は、学生の才能に敏感に反応し、私のよりこちらの論文のほうがずっといいと書いてきた。
私は大笑いした。論文には、自分が発案したものしか載ってはいなかったからだ。
これによって、文学的な才能が、チョコレートをかぶせるように、どんな新しい計画も大衆に呑み込ませるのに役立つことを確信した。
この間ずっと、「黒髪」は私をアトリエに招かなかった。ある日、大学の回り廊下で、自分のものと思い込んでいた彼女と出くわし、怒りをぶちまけた。
彼女は、古美術の講義を受けることに決まったのだ。彼女は、私の新カテキズムの計画に答えを考えているところなので、いずれそのことで静かに議論しましょうと言った。
議論? 私は、自分の考えを邪魔立てする議論には出会った試しがない。
だが、是非会いたいので、喜んで議論には応じようと答えた。
だが、心の中では、女は愛する男の意見には全面的に従うべきことを分からせてやるのだ、と考えていた。
私は、新カテキズム完成のために、聖餐の秘蹟に取り組んでいるところだとだけ言った。彼女は、溜息をついた。涙が目から溢れ、何も答えずに去った。
私は、このようなスリリングな著作の最初で、聖体の真の定義を書きたいと思った。
「聖体とは何か」という問いに答えれば、どのカトリックもこう答えるに違いない。
「パンとぶどう酒のもとで、イエズス・キリストの血と肉と霊と神性を実質的に含む秘蹟」
たったこれだけだ!!!
この問題を解決するには、真剣な取り組みが必要だ。太刀打ちできない信仰だからではない。慎重を期して、正面攻撃を避けるということだ。
この、いわゆる「パンとぶどう酒におけるキリストの現存」は、間接的に叩く必要がある。真っ向から攻撃すれば、カトリックは反撃してくる。迫害は常に信仰を強化する結果になるので、これほど危険なことはない。
そこで、「現存」の語には触れずに、この信仰を壊す、ないしは弱めるものすべてを解明することが必要だ。*
*〔管理人注〕元の訳、<そこで、「現存」の語には触れずに、この信仰を壊す、ないしは弱めるものすべてを明るみに出す。> を差し替えさせてもらいました。英訳版では「It is therefore necessary not to mention "Real Presence" and to shed some light on all that can destroy or weaken this conviction.」
「ミサ」という語を修正することがどうしても必要になる。語そのものを廃止し、「主の晩餐」とか「聖餐」に変えるのがよい。
ミサの刷新によって、彼らのいう「奉献」の重要性は低められ、聖体拝領は取るに足りないものになるに違いない。これは長期計画だ。いかなる部分もおろそかにしてはならない。
そこで、まず注目すべきは、犠牲をささげるときに、司祭が信徒の群れに背を向け、見えざる神、目前の巨大な十字架に象徴される神に直接話しかけているように見せる光景だ。
司祭は神によって選ばれ、同時に、神を仰ぐ者たちの代表でもあるわけだ。このとき、彼は権力も印象付けるが、孤独も印象付ける。自分が大きく孤立し、ほとんど見捨て去られている、人々に近づいたほうがずっと幸せになれると感じさせたほうがいい。
この考えがうまく成功すれば、高祭壇を廃棄処分にして、丸裸の小卓に差し替える可能性を提起する。司祭はこの小卓を挟んで参会者に向き合う形になるだろう。
聖体に関係し、この机を必要とする典礼の一部は、可能な限り短くなり、神の言葉の教えに関する部分が、かなり増やされるだろう。
カトリック信徒が驚くほど聖書に無知であることはよく知られている。だから、ミサ典礼にこんな修正を加えたところで、彼らはこれを正しい修正とみて疑いもしないだろう。
カトリック信徒が聖書の長々しい引用に喜んで耳傾けるという意味ではない。彼らは何も理解しない場合の方がほとんどなのだ。だが、少なくとも真の社会主義の司祭たちが訓練されるまで、彼らが理解する必要性はない。
ミサ典礼を構成する式次第は、聖公会とルーテル派のそれに注意深く比較しなければならない。これら三つの派が受け入れられるひとつか各種の式次第を推奨するためだ。このやり方に込められた素晴らしい利点は誰もが気づくに違いない。それは同じ言葉に正反対の意味を与えるものなのだ。
改宗か曖昧さ以外、取るべき選択はない。私が選ぶのは、信徒に「真の神の現存」を捨てさせる方法だ。プロテスタントが改宗することなくミサで聖体拝領をするのを目にすれば、カトリック信徒は、古くから伝わる「真の神の現存」に自信を持てなくなるだろう。
この「現存」は、そう信じるときのみ存在するに過ぎないのだと彼らに説明する。こうして、彼らは自分たちがキリスト教の創造者であると感じるようになり、彼らの中で一番の知恵者は、必要とされる結論をいかにして引き出すかを知ることになるだろう。
さらに、キリストの「真の現存」の考えを弱めるために、厳粛な作法はみな取っ払わなければならない。刺繍を施した祭服もなくなる。聖なる音楽もなくなる。特に、グレゴリオ聖歌は過去の遺物にして、ジャズ的な音楽を持ち込む。十字を切る作法もなくす。
跪きもなくなる。信仰者は、跪きの習慣を自ら破らなければならなくなるだろう。聖体拝領を受けるときに、これは完全に禁じられることになるのだ。
聖なる感覚をすべて抹殺するために、もうすぐ聖体は手で受けるようになるだろう。
(すでに選ばれた)特定の者たちに、司祭と同じく、二種の聖体を受けさせるのは悪いことではなかろう。ぶどう酒を受けない者たちは、激しく嫉妬するようになり、キリスト教をすべて捨てたくなるだろう。その方が望ましい。
それから、平日にはミサを行わぬよう、強く推奨する必要がある。現代人は時間を浪費しないものだ。
もうひとつの優れた方法は、家庭で食前か食後に行う家族ミサである。この目的のために、父母には修道会の秘蹟を受けることが許されるようになる。このやり方がどんなに優れているか、みな分かるはずだ。これによって、宗教行事を行うのに、金のかかる場所を使う必要がなくなってくる。
礼拝における神聖さをすべて滅ぼすために、司祭は土地の言葉でミサ全体を進め、特に、聖体奉挙式はただのナレーションにするよう求められる。この方が現実感がある。
特に司祭に言わせてはならないのは、「これは私の体、これは私の血」という言葉だ。それは、この言葉を語るキリストの場所を彼が占めることになるからだ。すべての者に、司祭がナレーションをしているに過ぎないと感じさせるようにせよ。
それから、犠牲の問題があってはならない。十字架の犠牲を毎度新しくするミサの犠牲のことだ。こんな言葉を受け入れるプロテスタントは一人もいないのだ。ミサは、人類同朋体のよりすぐれた幸せのための会食でしかない。
それに、普遍教会が設立されるときには、家族以外では、ミサそのものも存在する理由がなくなる。家族とは、もっとも熱狂的な者たちの意味だ。この種の者たちには我慢するしかない。だが、家に閉じこもっている限り、彼らは毒にも薬にもなるまい。
ミサの典礼文の祈りは最大限簡略化され、奉納、聖変化、交わりの三つだけが許されるようになるだろう。
簡略化し人間化された別の典礼書を持ち込むのに成功すれば、次世代の教化のために、ミサには「聖ピオⅤ世の祈り」と呼ばれるものがいくつかあったことを思い起こすのがいい。中世の反啓蒙主義に人類を閉じ込めるのに大貢献した祈りだ。奉納の祈りはその種の典型だろう。
もっといい祈りがあるのではないか。私は、幾つか奉納文とミサの他の祈りも考案するよう、すべての修道院に提案する。奉納文はパンを奉納する祈りだから、単にこう言ったほうが意味が通ると自分は考える。
「私たちは、人が造ったパンをここにもってきました。人の食べ物として出されなければならないものです。」
いずれにせよ、この儀式を聖なるものにみせる傾向のある言葉遣いはことごとく撤去しよう。 
ひとつだけ例を出そう。古いミサでは常にこう祈ったものである。
「イエズスは聖なる御手にパンをおとりになった…」
われわれの用語から「聖なる」の語を消し去る必要がある。われわれは「聖なる御手」とは言わない。代わりに、「彼はパンを取り、それを祝福した」等々というのだ。
これは、この仕事を達成する精神のよき実例になるだろう。今は時間がないが、あとで自分用にミサをひとつかそれ以上、試しに考案してみよう。
他方、これは僧侶の仕事だ。無論、ミサが三つの必須の祈りだけから構成されるようになれば、各自の趣味趣向にしたがって、詩篇や賛美歌、講演や説教で残りを埋め合わせることが許されるようになる。
このミサは会食に過ぎないのだから、使用するテーブルは、一〜二人が腰掛けるに十分な大きさでなくてはならない。私は、信者たちが食べるために、不便を我慢して一斉に席から立ち上がるのをいつも滑稽に感じてきた。拝領台に対してしばしば跪くことさえある。これは誤っている。ただの手すりをどうして「台」と呼ぶのか。
それで、どの教会も、一〜二人が腰掛けられる食卓だらけにすべきである。最後の晩餐では十三人がいたと信じられているが、誰もがこの数を嫌がるだろう。それで、パンを裂く前にユダが去ったという信仰を利用する。
さて、これにはさらに多くの数の司祭が必要になる。司祭を増やすのは簡単だ。これにはある種の善意、ある種の善行だけが求められるのだ。面倒な学問は一切必要ない。無論、独身者である必要もない。それでも、独身のもたらす力から益したいと思う者は、僧あるいは隠者になるだろうし、学問を望む者は神学者になるだろう。
多くの種類の司祭が出てくるだろうが、一般的な司祭は、家で食事毎にミサを行う既婚者の男だ。ミサは「主の晩餐」に過ぎないのだから、もはや、崇敬の行為ではなく社交儀礼に過ぎなくなる。
想像上の恵みに対して感謝することはなくなる。与えられもしない許しを施すこともなくなる。未知の奥義(ミステリー)を願うことはなくなり、人間のすべてを願う儀礼になるのだ…
普遍教会は、こうして、全くもって人間の栄光に向けられたものとなる。それは人間の偉大さ、その力、その逞しさを称える教会である。人間の権利に対して香を焚き、人間の勝利を謳歌する教会になるのだ。
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