2. 悪霊が喜んだり好んだりする事柄
ユダ
1975年9月29日
聖体拝領の時に人々が立っていること、これは跪くことよりも俺を喜ばせる。跪く必要などない。俺はそれを憎む。
司祭達は信者全員を立たせている。そして彼らの前足の上にそれを与えている。誰一人跪かないように、俺は出来る全ての事をする。
1975年10月15日
俺達はこの新しい改革を喜んでいる。俺達はこの変化に非常に満足している。
1975年10月6日
手による聖体拝領が行なわれる場所では、俺は他の事もコントロールできる。[1]
1975年10月10日
彼らが立っている時、俺達はとりわけ嬉しい。それが配布される時、彼らは常に立っている。俺達は成し遂げた。彼らはまったく豚のように馬鹿だ。
1975年11月24日
シノドスが終わったのは残念だ。俺達はそれがまったく気に入っていた。[2]
ルシファー
1975年10月20日
俺が存在することを信じない人々がいる。俺にとって最も愛すべき人々だ。俺は本当にハーグが好きだ。彼は全世界をすっかり混乱させた。
(アルト神父に対して)
お前が司祭服を着ない時、お前は俺達にとっていつもより快い存在になる。そして、司祭のうちかなりの者がそれを着ていない。これは俺をひどく喜ばせる。
1975年10月27日
手による聖体拝領は俺達が成し遂げた最高の仕事だった。[3]
管理人注
[1]  つまり、手による聖体拝領が行なわれる場所では、このような流れになりやすいということでしょう。
何故なら、これらと手による聖体拝領は根底に持つものが同じだから。
[2]  ユダのこの発言の直前のシノドスは1974年の第三回シノドスである。参照
[3]  その通りだと思う。悪魔に同調するわけではないけれども。
それは現在の御ミサにおいてほとんど最大級の問題だと思う。
しかし特にインテリ層において、手による聖体拝領のことを疑問視する事は、難解な神学を扱う事よりも、何かこう、あたかも「程度の低い」ことのように思われる傾向があります。そのような関心を “素朴な民衆レベル” の事のように思うのです。しかし……それは単なる自惚れです。
ルルドの出来事も、ファチマの出来事も、また他の示現の出来事も、神は「知恵者を辱めるために世の愚かなものを選ぶ」(コリント前 11:27)お方であることを教えています。
そのようにせっかく教えられているのに、わざわざ教えられているのに、はっきりと教えられているのに、聖書と有力な私的啓示の両方で教えられているのに、それでもインテリの人達は、やっぱりその同じ溝に嵌まるのですか?
ただし、恵みを受けた、正しい霊的感覚を持ったインテリもいます。ランジス大司教様、アタナシウス・シュナイダー司教様、イエズス会のジョン・A・ハードン神父様、哲学者デートリッヒ・フォン・ヒルデブラント氏、ニコラス・グルーナー神父様、SSPXの司祭達、成相神父様、マイケル・デイヴィース氏 etc...
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