18. 聖母出現地について
ルシファー
1975年10月27日
それ(聖母)は……どれほど多くの場所で、一人取り残された [1] ことか。もしお前達が上のそれ(聖母)を持たなかったら、お前達の多くは俺と共にいたことだろう!
サン・ダミアーノ……あの場所で……俺は人間どもが祈るのを邪魔してやった! あの場所では、神の母が近くにいる。彼女はそこで多くの恵みを注ぐ。
サン・ダミアーノとモンティキアリ [2] は本物だ。教会はそれらを認めなかった。これは我々の成果だ。
1975年10月20日
(やたらに汚い口調で)サン・ダミアーノが認められるまで、そう長くはかからないだろう。その……(軽蔑的に)水……それは二回目に行った時に持って来たものだな。(軽蔑的に)まだ腐ってないようだな。
1975年10月10日
バンベルクの XXX の中にも、そうだ、〔つまり〕ヘロルツバッハでも、それ〔聖母〕は現われた。しかし彼ら〔教会〕はヘロルツバッハを認めなかった。俺はそれ〔聖母〕が居るところなら何処にでも居た。何故なら、それは俺達から多くのもの〔霊魂〕を盗むからだ。[3]
 [4]
管理人注
[1] 「顧みられなかった」という意味であろう、勿論。ルルドやファチマなどの教会公認の私的啓示も、よく顧みられ、従われ、実行されたとは言えないだろう。
しかしながら、この言葉にはもう一つの意味合いがあるようである。それは、「幾つかの真の聖母出現が、それと認識されなかった。教会によって認められなかった」ということである。悪魔はサン・ダミアーノとモンティキアリとヘロルツバッハ(Heroldsbach)に言及する。
[3]  聖母に対する冒涜的な表現があるからか、英訳者である司祭はこの項を訳していない。
[4]  こういうものを表示するにおいて、少し牽制させて頂きますが……
私は悪魔にくみするわけではないけれども……世のカトリック信者の中には「教会が認めていない」という理由をもって簡単に、ほとんど自動的に「偽出現だ」と言う人がいるけれども……自分で確かめましたか?(限界があるとしても、少なくとも気持ち的には。)
つまり、カトリック信者にとっては残酷な言い方になるけれども……教会を疑う気持ちはありますか?(その基盤ではなく時々の判断を。)
教会の非正常性に応じて、それ(疑うこと)は必要だと思います。
以前も何処かで書かせて頂きましたが、「信仰」について認識力の衰えた教会が「私的啓示」についてだけは間違うことがない、いつでも信用できる、などというのは、考えられぬことです。信仰の認識が危うく、怪しくなったならば、私的啓示の識別もまた、「必ず」と言っていいほど、危うく、怪しくなるでしょう。両者は全く同じではありませんが、しかし物事を見分ける人間の能力という点で、どこか繋がっているからです。
サン・ダミアーノの水を汲む人達
サン・ダミアーノの巡礼者達(日の丸が見える)
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