預言とは条件的なもの
ベイサイドの預言のことを単純なかたちでただ「当たらなかったじゃないか」と思う人が居るかも知れないので、これを訳しておきます。
預言は条件的なものです、しかし...
預言の性質とは、それは常に全て人間の自由意志による応答如何にかかっている、ということです。「わが子らよ、あなた方に与えられた全ての預言は、人間の応答にかかった条件的なものなのです。このことをこの先も覚えておきなさい」(1976年9月28日、聖母)
人間の応答がそれに値した時、天がその御心をお変えになるということはあり得ますし、またしばしばそうなさいます。私達はこのことを、ベイサイドの人々や他の人々が祈りを貫いた幾つかの顕著なケースの中に見ることができます。
・「警告」の1973年における到来1973年12月29日にヴェロニカは、祈祷集会に参加した巡礼者達に向かって、1973年12月28日に予定されていた「警告」は延期された、と発表しました。「あなた方は執行猶予を勝ち取りました。...あなた方の祈りと犠牲が天に届きました」(1974年2月10日、聖母)[1]
・金融恐慌:「二年以内に」(1988年6月18日、聖母)
・大懲罰:「この球[彗星]は今世紀中に人類の上に送られるでしょう」(1988年6月18日、聖母)
・反キリスト教皇:「彼[教皇パウロ六世]は反キリスト教皇ではありません。次の教皇がそれであるでしょう」(1978年5月30日、聖母)
[注:ヨハネ・パウロ一世とヨハネ・パウロ二世は反キリスト教皇ではありません]
・「警告」の1997年における到来(1994年2月5日、聖母)
預言が条件的なものであることは、以下に示すような形で、メッセージの中で少なくとも二十回言及されています。
条件的であるということ
人類に下される全ての罰は、人々の反応に応じた条件的なものです。
- 1979年12月25日、聖母
その不思議な写真[Jacinta 1972][2] は、人類に下される懲罰の日付に関して天の御父がお与えになったものです。全ては人類の反応に応じて条件的であることでしょう。
- 1978年11月25日、聖母
これを理解しなさい、わが子らよ。天国からの全ての指令はあなた方の反応に応じた条件的なものなのです。
- 1976年8月21日、聖母
全ての警告は人類の反応に応じた条件的なものである。
- 1976年8月14日、イエズス
警告の中で与えられる指令の全ては、人類に応じた条件的なものである。
- 1976年7月24日、イエズス
わが子らよ。全ての預言、全ての警告は、条件的なものであったのです。人間の反応に応じた条件的なものでした。
- 1976年6月24日、聖母
あなた方は、天から与えられたこれらの警告の全てが人間の反応に応じた条件的なものであることを理解しなければならない。
- 1977年5月18日、イエズス
全ての警告は条件的なものとして与えられたのである。
- 1976年4月10日、イエズス
ヴェロニカ: 今、辺り全てがとても暗くなってきました。そして今、聖母像の真上の空に大きなクエスチョン・マークが形作られています。大きなクエスチョン・マークです。奇妙な感じです。それはまるで、何かが未決定の状態にあるかのようです。それは起こるのか、起こらないのか... それは条件次第です、大きなクエスチョン・マークです。天において何かが未定です。何かとても...とても壊滅的なもの。そして、私達は問われています、「あなた方はこれを望みますか?」と。
福いなるお母様、私達は執行猶予を受けようとしているのでしょうか?
聖母はお辞儀をされました。彼女はお答えになりません。今、聖母はご自身の唇に触れておられます。
聖母: あなたは続けなければなりません、わが子よ。償いの祈りを続けなければなりません。
- 1977年2月1日
ヴェロニカ: イエズスがおっしゃっておられます。「あなた方の世界で犯されている冒涜と罪のために永遠の御父に対して償いと犠牲が捧げられない限り」... イエズスがおっしゃっておられます、「私は “捧げられない限り” と言う。というのは、全ての罰は人間の反応に応じた条件的なものだからである。しかし、その時は(捧げられない時は)多くの艱難が人類の上に送られるであろう」
- 1976年4月8日
ヴェロニカ: おそらく私達は... 来ようとしている警告と大懲罰を喰い止めることができます。全ては条件的です。
- 1973年10月6日
「警告」は間もなく人類の上に来るであろう。わが子よ、あなたは私に “それを止めることはできるか?” と尋ねる。ただ祈りと犠牲だけによって、それは喰い止められるだろう。しかし、時は既に過ぎているのである... それ故、それは “止められるか?” という質問の対象になるべき事柄ではない。何故なら、わが子らよ、それは既に来つつあるからである。それ故、それはそうならないための祈りの対象であるべきである。
- 1988年10月1日、イエズス
わが子よ、これ[金融恐慌]は止めることができるであろうか? もし私達の思いが時間内に人々によって受け止められるのであれば、何事も止められ得るのである。
- 1988年10月1日、イエズス
私達はあなた方に、これらの惨事から離れている道を教えてきました。そしてその道は、ただ祈りと回心と償いとによってのみ導かれるのです。
- 1989年3月18日、聖母
預言というものが条件的な性質を持つものであることを示す優れた例は、旧約聖書のヨナ書の中に見ることができます。永遠の御父はヨナを大きな町二ネヴェに送り、そこに住む人々に向かって「四十日経ったら、ニネヴェは破壊されるだろう」(ヨナ書3:4)と告げさせました。それを聞くや否や、住民達は直ぐに悔い改め、償いをし、そして彼らの罪の生活を捨て、そこから離れました。「神は、人々が悪い行ないを改めようとして行なっていることを、見られた。そして神は、彼らに下されようとおっしゃっていた災いを、思い直し、それを下されなかった」(ヨナ 3:10)
もう十分なんで後は省略...(^^;ゞ
管理人注
[1] 私は、「こういうことはあり得るだろう」と単純に思う。
[2] 有名なこの写真のことです。1971年9月14日、聖ロベルト・ベラルミン教会の聖母像をポラロイド・カメラで撮ったもの。
2008/05/06
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