出現の概要
ヴェロニカ・ルーケンに関する Wikipedia の記事を訳しておきます。私達はこれによって、この聖母出現の概要と、そして特に、この出現の教会内で置かれた立場について、知ることができると思います。
ヴェロニカ・ルーケン
ヴェロニカ・ルーケン(1923年7月12日 - 1995年8月3日)は、ニューヨーク・ベイサイドに住むローマ・カトリックの専業主婦であった。1970年からその死に至るまで、彼女は、自分が聖母と数多くのカトリック聖人達の出現を経験したと報告した。彼女は、ニューヨークの 聖ロベルト・ベラルミン教会 及び フラッシング・メドウズ・パーク(1964年のニューヨーク世界博覧会の開催地)の両方において、それらのメッセージを伝えた。
当時のブルックリン司教区のフランシス・ムガヴェロ(Francis Mugavero)司教は、1986年、「綿密な調査の結果、申し立てられたベイサイドの示現は真正性を全く欠くものであることが明らかとなった」、そして「メッセージとこれに関係する他のプロパガンダは、とりわけカトリック教会の教えに反する内容を含んでいる」と表明した。参照
ベイサイドの聖母出現の概要
1968年、ルーケンは、その年の6月に彼女が車の中でロバート・ケネディ [1] の死のために祈っていた時に薔薇の香りがしたことがその最初の徴候であった、と報告している。彼女は、リジューの聖テレジアが彼女に現われ、聖なる詩(メッセージ)を口述した、と主張した。
ミセス・ルーケンは、聖母の最初の幻視は1970年4月7日に彼女の家で起きた、と報告している。聖母はそこで彼女に、自分は古い聖ロベルト・ベラルミン教会の敷地に、まず1970年6月18日に現われ、その後もカトリック教会の全ての大きな祝日に現われる、と言ったということである。それ以降、ミセス・ルーケンは、ベイサイドの聖ロベルト・ベラルミン教会の地所において一連の聖母出現を報告することになる。彼女の報告によると、聖母は1970年4月7日、彼女に、その地に聖母のための聖地を作ること、また、償いのためのロザリオの祈祷集会を持つこと、また、主日に教皇と司祭達のための償いの聖時間を設けること、を要求した。ミセス・ルーケンは、聖母からの預言──その多くは黙示録的な内容を持つものであった──をタイプし、周囲の人々に配り始めた。
およそ500人から2000人の聖母信心の篤信家達に押し寄せられ、教会の司祭達は1974年12月、教会の領域をフェンスで囲った。1975年、ブルックリン司教区の教区長(Chancellor)であったモンシニョール・ジェームズ・キングは、司教区はヴェロニカが受けている出現を信じない、と声明した。
他方、ルーケンは、自分の受けたヴィジョンを詳述した。乙女マリアと前述のリジューの聖テレジアの他に、彼女は、聖ヨゼフ、聖パウロ、福音史家聖ヨハネ、アヴィラの聖テレジア、聖トマス・アクィナス、聖ベルナデッタ・スビルー、聖ロベルト・ベラルミン、そしてその他からの出現を受けた、とも言った。大天使聖ミカエルと大天使聖ガブリエルも彼女に現われた、とも言った。
ミセス・ルーケンの証言を支持するところのものとなる一つの特徴は、その脱魂状態(ecstasy)である。これは、教会の多くの聖人達によって経験された、祈りと黙想の高いステージである [2] 。公然の出現のほとんどはロザリオの祈祷集会の間に起こった。それらの祈祷集会の間、ミセス・ルーケンは脱魂状態に陥り、その中で聖母と他の天国の人々に会った。外から見受けられる慎ましさと表情が、彼女が脱魂状態であることを特徴的に示していた(それは、そこにいた篤信家達によって数限りなく目撃された)。脱魂状態にある間、彼女の目は決して瞬きしなかった。彼女は、自分に与えられたヴィジョンを説明し、自分が聞いたものを繰り返した。彼女が脱魂状態にあった時の模様のほとんど全てが、何百人もの巡礼者達の面前で、オーディオ・テープに実況録音された。1989年3月から1995年の彼女の死に至るまで、マイケル・マンガン氏(下記参照)は、その聖地でのロザリオの祈祷集会の間、ヴェロニカのそばで、その脱魂状態の模様の全てを、マイクを持ち、録音することを許された。それらの実際の録音を聴き、またそれから書き起されたテキストを読むためには、次の場所を参照のこと。
脱魂状態にあるミセス・ルーケンの写真はこちら:
その頃、教会当局からの拒絶にも屈することなく、ルーケンとその支持者達は、問題の示現のあった場所の近くの街路の安全地帯で、集会を持った(1975 - 1975年)。それは、フラッシング・メドウズ・パーク(前述した 1964 - 1965年の世界博覧会の開催地)が、交渉の末、彼らに礼拝の場所として永久的に与えられるまで、続いた。ロザリオの祈祷集会と主日の聖時間は、今日に至るまで、その場所で続いている。それらの祈りの集会の写真はこちら:
彼女と彼女の仲間の信者達は、薔薇の聖母の聖地を設けた。それは、1995年の彼女の死以降も続いている。その組織の上部は、ヴェロニカ・ルーケン(会長)、その夫アーサー(副会長)、ミセス・アン・ファーガソン(秘書)、そしてミス・モーリン・ファーガソンとミスター・マイケル・マンガン(取締役)から成っていた。彼らの協力者として Lay Order of Saint Michael が、祈祷集会を準備するため、そして次第に弱くなり歳を重ねるルーケンを、米国及びその他の地域に住むカトリックの同志達との通信における管理責任において助けるために、存在していた。ルーケンがその経験を記述して以来、他の認められていない聖母出現──テキサス州ラボック(1988 - 1989年)、ジョージア州コンヤーズ(1989年)など──が起こり、それらのメッセージはその中に同様の黙示録的な主調を持っている。
ミセス・ルーケンは、何度か、いつの日か彼女の幻視の確実性が認められ、癒しの泉の場所がそうなったように、ベイサイドの最初の出現地にも大聖堂が建つだろう、そして、そこは米国における全国民的な聖母の聖地となるだろう、と予言した。
この出現の教会内における状況
様々なカトリック情報源によれば、ベイサイドの出現は、主張された出来事を合法的な聖母出現として認定するところの基準を満たしておらず、そしてそれ故、認められていない、ということである。懐疑論者達と中傷者達は、このような出現は公認のない私的啓示のままであると思われ、そして、雪の聖母からウォルシンガムの聖母やファチマの聖母に至るまで、公認のない聖母出現は一つとしてない [3] 、と主張している。ある人達は、ルーケンの幻視はパレイドリア [4] と呼ばれる精神現象として見なされ、それにおいては様々な対象が空想的な表象として視認される、としている。しかし、この見解には医学的な根拠はない。
これらの嫌疑に加えて、主張された出現のあった当時のブルックリン司教区の教区長であったフランシス・ムガヴェロ司教は、1986年11月4日、この出現に関して次のような声明を出した。
(…)従って、教理省との協議のもと、私はここに次のように宣言します。
1. ヴェロニカ・ルーケンとその支持者達によって報告されているいわゆる「出現」に対しては、いかなる信頼性も与えられない。
2.「メッセージ」とこれに関係する他のプロパガンダは、とりわけカトリック教会の教えに反する内容を含んでおり、司教達と協議会の合法的な権威を徐々に害するものであり、また例えば「詐称者教皇」がパウロ六世の場所で支配しているなどと主張することをもって、信者達の心に疑いを浸透させるものである。
EWTNにおいて、Mark Gantley 神父(JCL)は、教理省は1974年に「主張された出現及び啓示を判定する際の手順」に関する文書を発行している、と明らかにした。まず初めに、教区司教が問題とされる現象を調査する権限を持つ。彼が詳細な調査を完了した後、彼は自国のカトリック司教協議会に援助を要請し得、また、問題をバチカンに委ね得る。更なる詳細は マリア出現 の項を参照のこと。
St Michael's World Apostolate(下のURL)は、ベイサイドの出現に対するムガヴェロ司教の否定的な判定の信頼性について、深刻に疑問視する疑義を提出している。それらの疑義は、ブルックリン司教区が出現を判定するためのバチカンのガイドラインに従わなかったこと、この出現が持つとしている教義上の誤謬について何一つ例をあげていないこと、そして、ヴェロニカ・ルーケンは司教区の調査委員会の誰からも一度も質問されたことがないこと、などから来ている。
管理人注
[1] 彼が暗殺の凶弾に倒れたのは1968年6月5日のこと。(翌6日死亡) Wikipedia-ja
[2] このように断じるのは生半可なことだ、と管理人も思います。
[3] 訳し方が悪いのかも知れないが、要するに「公認のない聖母出現など聖母出現ではない」ということだろう。
[4] パレイドリア(Pareidolia、変像症): 壁のシミが人の顔やいろいろな動物に見えたりするように、実際にはシミだとわかる批判力はありながら、対象が実際と違って知覚されるものを言い、錯覚 illusion の一種である。参照キャッシュ
2008/04/22
《ページ移動のためのリンクはにあります》
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system