ヴェロニカ・ルーケンとリトル・ペブルは別である
もしサタンがサタンを追い出すのなら、仲間割れすることになる。そんなことで、どうしてその国は立ち行くであろうか。
マタイ 12:26 他
あまりに多くの人が、ヴェロニカ・ルーケンとリトル・ペブルを「一緒くた」にしています。
その理屈は簡単です。
「リトル・ペブルはその活動の初期の頃、ヴェロニカ・ルーケンと接触があったようだ。一時期ベイサイドでボランティアとして働いていたようだし、ヴェロニカ・ルーケンからローズ・ペタルが送られて来たと自分で言ってもいる。また、ヴェロニカ・ルーケンの預言の多くのものをそのまま引き継いでもいる」
しかし、それだけなのです。
ん? 「それだけじゃいけないのか」ですって?
まあ、私はそう思いますね。
単純な話、
(1)或る者が精神的・霊的に明らかに変な状態である。
(2)その者は過去、或る団体・或る人物と接触していた。
(3)依って、その団体・その人物は精神的・霊的に変である。
──こういう判断法はあまりに簡単過ぎます。
もしそういう判断法が正しいとするなら、
(1)ヴェロニカ・ルーケンは精神的・霊的に明らかに変な人である。
(2)彼女はカトリック信者であった。
(3)依って、カトリック教会は精神的・霊的に変な教団である。
──と言われても仕方がないようなことになります。
だから、個別的によく見てみなければならない、と私は思うのです。
(「個別的に」と「よく」が必要です。)
「ヴェロニカ・ルーケンとリトル・ペブルが必ずしも “一つ” ではない」ということを言うために、私はここに、ただ一つの事を置こうと思います。
それは、ヴェロニカが「聖母」から、そして「イエズス」から、
「オーストラリアから出た者とは接触してはならない」
──と言われているという事です。
今、「聖母」「イエズス」と括弧でくくったのには意味があります。それは、ここではその文脈上、たとえそれらが “偽物” であっても構わないからです。つまり “偽物の聖母” や “偽物のイエズス” であっても構いません。
何故ならば、今ここでの目的は、私達の判断過程を整理して、「ヴェロニカ・ルーケンとリトル・ペブルは同じである」というあまりに単純な等式を退けることだからです。それを退けるために、ヴェロニカの「聖母」と「イエズス」が “本物” である必要はありません。
1. ヴェロニカは、その「聖母」と「イエズス」のそれぞれから、次のように言われています。
1985年10月5日 -「聖母」
わが子よ、これは人類に知らせて構いません。今、次の苦難がオーストラリアに来ようとしています。多くの人々が死ぬでしょう、わが子らよ。このことの故に、私は、世界がオーストラリアの二人の幻視者を知ることを望みます。現在出ている一人の人物は退けられねばなりません。やがてオーストラリアから二人の真正な幻視者が出るでしょう。
My child, this you can make known to mankind, that there shall be now a next tribulation in Australia. There will be many deaths, My children. That is why We do hope that the world will recognize two seers in Australia. The one who has presently come forth must be placed aside. There are two legitimate seers which shall come forward from Australia.
1987年6月6日 -「イエズス」
これを常に覚えておきなさい、わが子よ。これらは聖なる土地である。それ故、誰であれ、決して隠れた目的をもってここを訪れ、これらを悪用してはならない。また、私はあなたにこうも言わねばならない。私は、あなたがオーストラリアから出た者と、決して、どのようにも、どのような程度においても、共にいて欲しくない。あなたは彼と結びついてはならない。これには理由がある。私達は今は彼を裁こうとは思わない。しかし、やがて時が、彼がそれまでどのような者であったかについての証人となるであろう。
Remember always, My child, that these are sacred grounds, and in no way must anyone profane them by coming here with ulterior purposes. I must tell you this, My child, too, I do not want you to, in any way, or any manner or measure, to be together with one who has come from Australia; for you shall not unite with him. There is good reason for this. We sit not in judgment of him at this time; however, time will bear witness to what he has been up to, My children.
2. そして、これに対し、リトル・ペブル側が反論しています。
1985年10月5日以来、ベイサイドご出現の働き手たちは、リトル・ペブルとそのオーストラリアにおける使命に攻撃をかけてきました。
ベイサイドの幻視者ヴェロニカ・ルーケンは、1985年10月5日に、現在オーストラリアにいる幻視者は排除されねばならぬ、というメッセージを受けたと主張しました。これはリトル・ペブルに関してのことですが、彼の名前は使われませんでした。だがベイサイドの働き手たちはこれを契機として、リトル・ペブルの信用を落とそうとして、反対運動を開始したのです。
1985年10月のベイサイドのメッセージは異常でした。それを読んだ人は内容に大きな矛盾があるのがわかったはずです。主要な箇所はオーストラリアから二人の幻視者が出てくるだろうと言っているところです。この時点で、他の幻視者といえば、シドニーのジョーゼット・ハーブだけでした。カミーユ・ラトフは神秘家で癒しをしていますが、メッセージは受け取っていません。この時、この二人はリトル・ペブルと一致していました。
1987年6月19日 -「イエズス」
最愛の息子よ、あなたが質問したことについて話そう。わたしがヴェロニカにあなたと一致しないようにと言ったことが真ならば、それは近来稀に聞く大ウソである。わたしは、その様なことを言ったことはない。
3. さて、どちらの「イエズス」が本物なのでしょうか。
(えらいこっちゃ w)
あるいは、“どちらも偽物” なのでしょうか?
検 討
もっとも、皆さんが期待するような「確証」は、霊的な事柄に於いては、なかなか難しいです。否、「難しい」ではなくて、「不可能」です。
教会に聞け?
否、残念ながら、特に現代のそれは、往々、しばしば、当てになりません。
それゆえ私達は、教会の上に自分を置くのでなしに、しかし真実を自分で見極めようとしなければなりません。
今の、上のような言い方について、多くの人が混乱します。多くの人は「教会も間違い得る」と認めつつも、いざ「具体的にどこが間違いか」ということになると、「一信徒はそれを判断してはならない」かのような、あるいは「教会の間違いを一信者が正しく認識することはあり得ない」かのように思ってしまいます。しかし、それこそ間違いです。そのようなことはあり得ます。ただ、そのような一信徒の主張あるいは認識は、たとえ正しくても、地上の教会の権威の秩序の中には乗らないということです。
さて、思わず長広舌をぶってしまいましたが、検討してみましょう。
まず、私が思うに、リトル・ペブル側の主張には、あまり力がないように思われます。ヴェロニカの「聖母」と「イエズス」が告げた「オーストラリアから出るだろう二人の真正な幻視者」は、リトル・ペブル側が目星をつけた二人とは全く別である可能性があります。
しかし、それよりも何よりも、ヴェロニカの「イエズス」の最後の言葉が、現在の私達にとっては大きな迫真性を持っていると言えるのではないでしょうか?
やがて時が、彼がそれまでどのような者であったかについての証人となるであろう。
Time will bear witness to what he has been up to.
私は、皆さんがどう思っているか知りませんが、「信ずる」ことにおいて強迫的な人間ではありません。それで、上の言葉を言ったヴェロニカの「イエズス」が本当のイエズスかどうかを不問にしつつ「見る」ことができます。そして、そのようにして「見る」ことをした場合──つまり「ベイサイドのイエズス様が言ったことだから」云々という見方を排除しつつ、上の言葉それ自体を見た場合──私は「全くその通りだ」と思わずにいられません。
また、次の記事も、訳しませんが、参照してください。
WILLIAM KAMM AND BAYSIDE Google自動翻訳)(Yahoo自動翻訳
これを読めば、ウィリアム・カムという人が最初から素行が──中でも性的な素行が(その後の彼を彷彿させます)──悪かったこと、そしてヴェロニカ自身からはっきりと出て行くように言われていたことが分かります。
すなわち、ヴェロニカ側(の霊)とリトル・ペブル側(の霊)は、上に挙げた一点に於いて、激しく対立しているのです。
この対立の構図を忘れないで下さい。それは鮮やかな、露骨な「対立」です。
そして、冒頭に掲げた主の聖言を思い出して下さい。
「もしサタンがサタンを追い出すのなら、仲間割れすることになる。そんなことで、どうしてその国は立ち行くであろうか」
私の質問はこうです。
私達は、この聖言を、今見ているここに適用しないなら、一体どこに適用するのですか?
結 論
(後日の加筆)
あくまで私としての結論です。
人は、人のことを、とかく簡単に考えます。
が、私とて、ここに至るまで、
それなりの過程を経ました。
しかし、ここではその過程の説明は省き、
結論だけを書きます。
或る日の日記に、ちょうどいいのがありました。
あまりに「つぶやき風」ではあるけれども。
リトル・ペブルは大したものではなかった。
それは実際 “小さな石” だった。
“彼ら” が置いた “小さな躓きの石” だった。
けれど、
おそらく彼らも予想しなかったほど、
意外と効果があった。
リトル・ペブルはね、
ベイサイドをつぶすためのものだったんだよ。
同一視させるためのね。
皆、見事にそれに引っかかった。
口を揃えて言った。
「ベイサイドとリトル・ペブルは同じだ!」
もちろんベイサイドは
それ自身に常識では受け入れがたい内容があるから、
リトル・ペブルがなくてさえ
支持者は少なかったろう。
けれど、
ベイサイドの失墜に弾みをつけるためには、
リトル・ペブルは非常に効果があったんだよ。
人は目を洗う暇もなかった。
2009/09/15
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