2006.01.26

教えないのですか? 3

今日のテキストの始めの方に「第一の掟」と「第二の掟」についての言及がありまして、今日は神父様にその後者である第二の掟、即ち「隣人への愛」について中心的にお話し頂いた訳ですが・・私達は「隣人を自分のことのように愛せよ」と言われた場合には比較的容易にイメージが湧きます。人道的な行動、つまり飢えている人に食べさせるとか、裸の人に着せるとか、あとは心の面では孤独の人に笑顔を向けて慰めるとか、そういうのは割とイメージが湧くんですね。でも「第一の掟」の「神を愛する」ということについては、具体的行動的に言えばどういうことになりますでしょうか?
司祭
だからここで出て来るのは申命記の、旧約聖書の言葉なのね。「心を尽くし精神を尽くして貴方の主なる神を愛しなさい」というのは何かって言ったら、ユダヤ教の中でのユダヤ人にとっての「掟」ですよ。具体的には「父母を敬え」「嘘を言うな」、あの十の掟、具体的なこと。そしてそこに更に付け加わったのが、イエス様に怒られたりしたところの律法というもの、つまり規則。例えば「食事の前には手を洗わなければならない」とか、「安息日にはこういう労働をしてはいけない」とか、そういう規則です。そして彼等にとってはそれらを守ることが「神に対する愛」なんですよ。だからそこにはサマリヤ人とかアフリカ人とかローマ人とかは全く入らないんです。その掟は飽く迄も神が自分達の民族に示された、その『枠』の中にいる人達に対する掟であり愛なのですよ。だから家族、友人、同じユダヤ教の人達・・そういう中で例えば農家の人達に対して、「麦を刈った時に二番刈りをしてはいけません。落穂拾いとかしてはいけません。やもめとか貧しい人達がその残っているものを拾って生活の糧にするから」となるんです。・・これも一つの隣人愛ですよね。まあ一番いいのは寄付すれば一番いいわけだけど、そこまで出て来ないわけよね。そうやって、ひとつの具体的な形で「こうしなさいよ」ということなんです。農家の人はこうしなさいとか、漁師の人はああとかこうとか、食事の時には手を洗う。そういう形での「魂を尽くし心を尽くし精神を尽くして、そのように隣人に、神に対して愛を示しなさい」という世界なんですよ。
新約の私達にとってはどういうことになりますか?
司祭
それは貴方がさっき言ったことに関して言えば、困っている人を助けるとか、孤独の人に笑顔をというのは、これは飽くまで「自分」を中心に考えている訳でしょ?人に向かっているという言い方をするけれども、あくまで自分が中心ですよ。例えばその泣いている人が実は私のことで世間に悪口を言いふらしていたとすればどうでしょう。その泣いている人を貴方は励ませますか?っていうことになるよね。大抵「いや、彼は違う。私の『枠』の中に入っている人間ではない」ということになりますよね。つまり私達が「隣人とは」と考える時に自分勝手に『枠』を作っているわけよね。イエス様がお話しになったあのサマリヤ人の話で言えば、ユダヤ人達はサマリヤ人達と絶対に一緒にならなかった。何百年もね。生き残ったユダヤ人達はあのサマリヤ人達を自分達の同胞だとは絶対に認めなかった。というのは、アッシリアに滅ぼされた時に、生き残ったユダヤ人と異教徒の混血として生まれたのがサマリヤ人です。だからその過程で異邦人、異教徒の習慣とかみんな入ってきて、だからユダヤ教や聖書は残ったけれども、典礼とか祈りとか生活の習慣とかが、混ざっちゃって混乱した。ユダヤ人達はバビロニアに滅ぼされて戻ってきた時にも苦労をしたし、国の再建のために努力もしたし、掟を守るために兄弟が殺されたり、そういう話が旧約聖書に沢山出てくるわけですけど、そういうことを体験していながら、もう絶対にサマリヤ人などを我が隣人としなかったわけです。・・という中での話になるわけです。
はい、分かりました。しかし私が訊きたいのはもう少し単純でして、「隣人をそのように愛していれば、第一の掟も守っていることになるのか」ということなんですよ。
司祭
どういうこと?
「言い方は違うけれどもこの二つの掟は内容は全く一緒なのか」ということです。一種の異音同義語のようなものなのかという・・。行動的に人を愛するということであれば、困っている人達を助けるということなら社会主義者もやるかも知れない、NPOもやるかも知れない、赤十字もやっているかも知れない。だけど彼等は神を信じてないかも知れないですよね。ですから、やはりこの人達はこの文脈で見ていくと、「神を愛しているのか」と言えば、やっぱりそういうことにはならないんじゃないかと思うんです。
司祭
いや・・
例えば人様でなくして私達にしたって、そのような慈善活動的な方向に心が動いていても、神を考えることなく、祈ることもなく、教会にも足を運ぶことがないとしたら、やっぱり完全ではないということになると思うんです。
司祭
うん、でもね、そう言っちゃうとそこに裁きが入っちゃってるということになると思うんだよね。だから言おうとしていることは何かというと、「キリストが『旧約がこうで新約がこうだ、旧約の掟が悪かった』とか言った」とかそういうことじゃなくて、神を愛するということは隣人に対して『枠』を乗り越えなければならない、まったく新しい発想で生きていかなければならない、キリストの伝える愛というのは全く新しい愛なんだということ。そして神様の愛というものを意識しないでも、ただ良心に従って貧しい人に援助をし、苦しんでいる人が居れば「どうしたの?」と声も掛け、何かあれば形でやってあげるというこの「善意」ということに関しても、イエス様は否定している訳ではないんだよね。
もちろんです。ただ、僕達の信仰生活にしても、神を愛していたら自然に心が神に向いて、祈るだろうし・・
司祭
いや、でも、そこがね、少し観念的だと思うんだよ。だって一言で「神を愛する」と言っても、一体それが何を意味するのか?ということになると、それぞれ今の生活の中で「これも神を愛することじゃない? あれも神を愛することじゃない?こういう状況の中にあって、それがその人にとって精一杯神を愛することじゃない?」とかさ、そういうことになると思うんだよね。で、基準て言うのは・・
ただ、あの〜、教会っていうのは「祈りなさい」と教えると思うんですよ、私達に。だけど私なんかもそうなんですけど、「ああ面倒臭いな、祈るの嫌になっちゃったな。やめようか」とか、そういうふうになった時に、私は私を省みて、「やっぱり自分は神に対する愛が足りないんじゃないか」と思っちゃうんですけど・・そういう見方はしなくてよろしいんですか?
司祭
いや、そういうのが観念的なものだと思うんだよ。だってそれじゃあ「祈りっていうのは何ですか」と言ったら・・
まずは行動的に考えなければいけないと思うんですが・・。私達の信仰生活あるいは求道生活において、たとえば「ああ今日は日曜だけど教会に行くのかったるいな、休んじゃおうかな」と思った、その後で私達はどういう心を持つべきか。自分を戒めたり反省したりすることは・・必要はない訳ですか?
司祭
必要であるとか、必要でないとか、そういうことでないと思うんだよね。
わかんないな・・
司祭
その人が行くか行かないかという状況は百人居れば百通り。みんな違うと思うんだよ。
もちろん。でも怠りだった場合は?
司祭
うん、それはその人の問題でしょう。
その人の問題・・
司祭
うん、たとえばね、「私こうなんだけど、皆さん、こんな私をどう思いますか?」と言った時に、「いや、あなた、それは罪だ」とかね・・。また、そうじゃなくて「貴方、毎日一生懸命働いているんだもの、そんなに毎日あるいは毎週教会に行かなくたって・・。疲れている時があるんだから、休んでもいいんでない?」と言う人もいればさ・・
でも、教会はそうは言いませんよね。
司祭
そんなことないよ。そんなに教会は掟にがんじがらめにしない。
「最近仕事が忙しかったから、教会に行きたくない気持ちもわかるよ」という姿勢なわけですか、教会っていうのは。
司祭
うん、裁かないと思う。
ええ、裁かないのはそうですけど、でも教育とういのは励ましたり鼓舞したりする訳じゃないですか。
司祭
うん、だけどそういうことは人に訊く前に自分の中でもう答えを持っている訳でしょ?
まあ、そういうこともありますけど。
司祭
実際自分で本当に分からなくて訊いているんではなくて、「ああ、失敗した。行けば行けたのになぁ」と思う時もあれば、自己弁護じゃないけれどある人から「休んでもいいんだよ」と言われることを期待することもあるかも知れないし、ある人から「とんでもない!」と言われて「人のことを何もわかってくれない」と思うことになるかも知れないし・・その状況によってもうコロコロ変わる。だからそういう表面的なことでなくてもっと基本的なところは何かという・・個々について言えばみんなもうそれぞれ答えも違ってくる、状況も違ってくると思う。だから、ひとつひとつの個別のケースについて「これはこう」と決めてしまうとね・・これは正にユダヤ教の律法、掟の世界になるってことでしょ?
でも、たとえば神様は「生温い者よ、私から離れてゆけ」と仰いますよね。
司祭
うん、でも神様の中には憐れみや許しもあるしね、「七の七十倍許しなさい」という神であるし、慈しみもあるし・・そこで問題は、神への信頼の問題だということで、「こんな私ではありますけれど、神様、私はあなたを信頼します、ごめんなさい」で神様は許してくれると思う。それで私は充分だと思う。
ただ人間っていうのは、私もそうですけど怠慢な性質があるものですから、実際一人だけでやってるとずるずる自分に負けちゃうことが多々あるんですよ。そういう時にやっぱり学校に教師が居るように、やっぱり教えたり励ましたり促したりしてくれる存在は有難いと・・
司祭
うん、それが教会という共同体なわけですよ。相手が神父様でなくってもね、信者同士で、「貴方、これはこうしたらいいんじゃないの」とか、そこに信仰の友の間での分かち合いがあると思うんだよね。また、それは理想ではなくて既に一つの現実であるし。初代教会の頃からね。
いや、現実と言っちゃうと、この現代の世の中っていうのは愛の心が冷えちゃってますから・・。私達自身愛の心が冷えちゃってるんですよ、他人に対して。だからやっぱり、そこは気づいてないと。たとえば「あの人は毎日祈れてるかなぁ」とか、「最近教会に来ていないけどどうしたんだろう」とか、そういう関心を持たない私達っていうのは往々にしてあるものだし・・。だからそういうのに気づかないといけないと思うんですよね。
司祭
うん、しかしそういうのは自然に養われていくものであるしね。でもまあ、確かに私達は時々立ち止まってそういうことを考えていかなければならないものでもあるけれど。でも、皆が皆同じような問いかけに対して同じ答えにならないと思うんだよね。ある人は「あんたは来なければ駄目だよ」と言うかも知れないし、また別の人は「ゆっっくり休んでもいいんでない?」というかも知れないし・・
〔私はそろそろこの司祭とのまともな会話を諦める〕
いやー、まあしかし私なんか怠け者だから・・(笑)。皆さんはどうなんだろう。たとえば朝とか夜とか、祈れてる? あるいは祈ろうと努めていますか? 私は最近抜けがちになっちゃうんだけれど(笑)
司祭
んー、だからね、祈りって言ってもね、あんまり自分の考えで「祈り」というものを捉えて、人に訊いたりするのはね、あんまりね・・裁きがちになるし・・
いや、そういうことじゃなくて・・
司祭
うんうん、そういうことじゃなくてね。祈りは反省でもあるし、希望でもあるし、願いでもあるし、思いでもあるし、すべてがイエス様に対する祈りの範疇であるし、「今日一日頑張って働くぞー」とかね、「出会った人に笑顔で過ごすぞー」とかさ、それももう立派な祈りの一日の出発であるし・・
司祭
いや、そういうことだよ、イエス様の言う祈りっていうのはさ。ことさら具体的な形ではなくて、一日をいったい誰に託して生きるかという精神だと思う。
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