2006.04.08

司祭「そんなに嫌なら、別の教会を作ったら?」

これは私の体験ではない。そしてかなり昔の話である。
静岡の藤枝教会でのことらしい。
こういうことが「昔の話」であればよいのだが。
皆が跪いて御聖体拝領をするのは、新しい神父様が来られてから最初の数週間続いたものの、今度は行列を作ってから跪いて聖体拝領するようになり、その後には行列の時に立って拝領することが勧められ、跪く人は行列の最後につくように指導されました。それでも多くの人は後の方に並んでから跪いて拝領していました。しばらくすると、跪いてでは御聖体拝領を断られるようになりました。それでも私は、行列の最後について跪き聖体拝領をしようとしていましたので、一人取り残されて、そのまま席に戻るというようなことも何度もありました。
その当時は、たとえ口での御聖体拝領であっても、立ってすれば拝領出来ました。しかし私は立ってでは聖体拝領をしませんでした。(その後何回か神父様が代わり、ある主任司祭は、必ず立って手で聖体拝領するように信者さんたちに強制したそうです。そこで、藤枝教会の信者さんは必ず立って手で聖体拝領をするようになってしまったそうです。)
藤枝カトリック教会の良き習慣はこうして壊されていきました。新しい神父様は、ヨゼフ・マリ・ジャック神父様の教えとは別の新しいことを信じておられたようです。つまり、新しい主任神父様は、今までの藤枝教会にしっかりと根付いていた伝統や習慣を廃止して、別の教会を作ろうとしていたようです。私たちは、それでも神父様に対して絶大な尊敬を抱いていましたから悪口などは決して言いませんでした。しかし主任神父様は、このような私のことをうるさくお思いになっておられたようで、ミサに与っても御聖体拝領は出来ず、ある日ミサの後に神父様とたまたま会うと神父様から
「そんなに嫌なら、別の教会を作ったら?」
と言われたことを覚えています。私はその時何も申し上げず、黙って聞いていただけでした。
この神父様の言動を良心的に解釈することは可能でしょうか?「彼は彼なりの真面目な職務意識からそのようにしたのだ。それは理解できる」と?
私はそうは思わない。彼はむしろ自分の職務が何なのか分かっていない。
何のための第二バチカン公会議以降の教会改革ですか?
現代人の心をより効果的に惹き付けるための、沢山の現代人の霊魂を救うための改革ですか?
いいでしょう。しかしそのために、敬虔に跪いて主を受けたいという信者に聖体拝領を許さず、排除するわけですか?「お前は御聖体を受けなくていいから出て行け」と言うのですか?「より多くの人を救いたい」と熱望し、そのために改革の情熱に燃えている司祭の心が、同時にそのようなことを言うのですか? 主イエズスの御心をもっと教会に現わすために?
この司祭の心は、主イエズス様の御心に近いですか?
私が跪きなんかにこだわるのも、半分はそのようなことのためなのです。
つまり、跪きということ自体だけで考えているのじゃない。
跪きなどを願い出てみると、司祭の顔が見えてくるからです。
人の霊魂は何よりも重いです。「何としても救いたい。何としても永遠の滅びを免れさせたい」とお思いになって、主は御自ら十字架にのぼられたのではないですか?
それにも拘らず、地上の私達の教会では、御聖体を跪いて、あるいは口で受けたいと言っただけで、司祭は信者を救いの教会の外に追いやろうとするのです。
もう一度言います。
このような司祭の心は、主イエズスの聖心に近いですか?
主イエズスの慈しみの眼差しと、いわゆる「伝統主義者」とレッテルを貼られた人達を排除したがる司祭の目付きがどれほど違っているか、ちょっと想像してみて下さい。
従順。秩序。謙遜。それも確かに大事です。でも司祭は、信者が跪くからといって、また口で受けたがるからといって、ただそれだけでその信者に御聖体拝領を断ることはできません。まったくとんでもないことです。
司祭においてはこの場合、跪くことをやめようとしないという「教会法にまでは抵触しない不従順」に目をとめることよりも、「主によって自分に託された信者に忠実に御聖体を与えること」の方が、呆れるくらい明らかに、上位の、基本的な務めです。
だから、上のエピソードの司祭は、「真面目な職務意識からそのようにした」のではなく、「自分の職務が何なのか分かっていない」のです。
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