2006.04.23

司祭と面談 4

たとえばね、一つの国を治めるにあたって、日本国憲法とね、自治体の条例っていうのが同等であれば、その国は治まりませんよね。中心がなくなっちゃうから。だから教会でも、それと似たような考え方が可能でなければ、教会っていうのは中心を失ってしまう。
司祭
だからローマっていうのが中心になるんでしょ。バチカンが中心になるんでしょ。世界の教会の。でも、その世界の教会の代表を選ぶのは世界の教会が選ぶんだよね。独裁者が選ぶんではないんだよね。
もちろん、もちろん。
(ここは私は少し妥協しました。私の心には「聖霊による選び」ということもありました)
司祭
我々の仲間、兄弟達が、同じ信仰者が選ぶんだよね。
もちろん、もちろん。だけど、さっき言ったように、そうであっても一旦選ばれた限りは、その人は私達の上司になりますよね。
司祭
教皇様、あれ、上司とは思わんけどね。兄弟だよね。仲間だよね。
上司とは思わない・・
司祭
思わない、思わない。仲間だ。あれは司祭としての仲間だ。信者として仲間です、兄弟です。教皇様自身が私達に「兄弟」と呼びかけているんだから。
上司? 上司ってどういうことさ、貴方にとって。
たとえば・・・贖宥ってありますよね。
司祭
今はもうない。
去年の御降誕祭の手前で、教皇様が贖宥を全世界に発表されたそうですけれども、それを私達カトリック信者は知って、こういうお祈りをすれば免償を頂けると、そういうのがありますけれども、そういう教皇様の発表、意向、それを各国の司教は受けて、信者に伝えるとか、そういう動きは、ないわけですか?
司祭
いや、もうローマから直接受ければもうそれはそれでオーケー。司教様達もそれを認めてます。
しかしながら、日本の司教や司祭の方々は、なかなか・・カトリック新聞とか何かには書いているのかも知れないけれども・・教皇様のそういう発表とか、御意向について・・信者に行き渡らないんですよ。知らない信者が多数。ということは、その贖宥に従って、祈りとかを捧げて免償を頂くチャンスを逸する信者も出てくるわけですよ。
司祭
でも、それは一方的なあれでさ・・
何が一方的なんですか?
司祭
うん・・・そういう面はある。だから、そういうことはカトリック新聞とか司教様達にね、おっしゃればいいんだ。そういう不平か不満があるんなら。
不満じゃなくて疑問なんですよ。だって、普通の会社で、社長が全社に対して「今後わが社の経営に関して、こういうことに留意してやって行くつもりだから、君達も念頭に入れるように」って言ってるのに、支社のトップの人があまりそれに気をとめなかったりとか、そういうことがあれば、まあ社長の立場からすれば「会社はうまく回って行かないだろう」っていうことになるじゃないですか。ね? 社長の目から見て。支店長の目はまた別ですけど。
司祭
日本の教会はそういうふうに見えるっていうわけ? あなたは。
そういうこともあり得るかな、と思う。というのは、私も教会に入り立てなものですから、教会というのは一つのピラミッド、ヒエラルキーに見えるわけですよ。ここに教皇様がいて、枢機卿様達がいて、司教様達がいて、神父様達がいる・・
司祭
でも、ほんとは違うんです、もうね。それは根本的に違うんだよ。今、教皇様は言ってないんだよ。もう、ヒエラルキーがこうあるのは、昔のイメージで。もうヒエラルキーじゃないんです。私達はキリストを中心としての兄弟としての交わり。その中に、専門職じゃないけれども、司祭職として生きる人もいる、シスターもいる、家庭生活を持ってキリスト者として証する人もいる。そういう中で専門的にもっと大きな教会を導くためのその人も必要だから、その人達は使徒の後継者となって、その地方、私達の教会を助けてもらうという形ですよね。だから、昔のような王制制度でもって、王がいて、貴族がいて、サムライ達がいて、市民がいて、農奴がいて、奴隷がいて、というようなね、そういう中でのキリスト者の世界とは基本的に違います。
ただね、まあ一般の会社組織と比較して言うのは問題があるのかも知れないけれども・・でもね、一般の会社組織で言えば、社長が部長に何かを命令したりとか、本社が支社に何か指示を出したりとか、そういう姿を見ても、私達は「封建的」とは思わないですよね。それはごく普通のこと。一つの組織が成り立っていく為の一つの当然の機構ですよね。そういうものが駄目だとすれば、もうね、体に血が流れて行かない。本社から支社に血が流れて行かない。その組織は駄目になっちゃいますよ。
司祭
会社はそうかも知れない。
それを見ても、私達は「封建的」とは思わない。そして、それと同じような目を持ってカトリック教会というものの全体を見るのは、必ずしも適切ではない、ということなんですか?
司祭
うん、適切でないね。だって、上の人達は奉仕者だもの。基本的に違うでしょ?
奉仕者というのは一つの言い回しであって・・
司祭
いやいやいや、言い回しじゃないよ。そこが、貴方の基本的に全然違う発想なんだよ。
神父様は私の奉仕者ですか?
司祭
そうだよ。私達皆、完全に奉仕はできていないかも知れないよ。人間だから弱いところがあるから。でも、イエス様が言ったのは、そうでしょ?「私は仕えるために来たんだ」、イエス様御自身〔がそう言ってる〕。あの最後の木曜日の時に、イエス様は弟子達の足を洗って、「貴方はこのことが分かるか」と・・
だけどもその時には前置きがあって・・
司祭
ん? どんな? 何? 言ってみてよ。
「あなた方は私のことを先生と言い、主であると言う。それはその通りである。実際そうであるからである」っていう前置きがありますよね。
司祭
いや、それは違うんだ。それは当時の人の、自分のついて行く人、指導者とか何かに対して・・・今でもそうでしょ? 我々も国会議員なんかに「先生」と呼ぶ・・・だから当時の人々にも、律法学者、長老達、そういう人達に対して、「先生」とか「師」とかいう言葉を使った。だから弟子達も・・・お百姓さんとか漁師さん達に対して、自分達より秀でた立派な人達を、何百年も昔から「先生」とか「師」とか呼んでた、それは当り前だ・・・そしてそんな中で、彼らの受けて来た教育も、そういう中で、「イエス様を師と呼ぶ、先生と呼ぶのは正しい」と。でも、イエスはそうではなくて、「私はあなた方を友と呼ぶ」と。それ、基本なんだ。そっから始まってるんだ、教会は。
しかしね、兄弟が兄弟に対して「お前はあそこの国に行って宣教せよ」と命ずることはないですよ。
司祭
できますよ。できますよー。私、フランシスコ会兄弟。ね? 宣教師。「お前、あそこに行く? 中国に。」また、「中国に行きたい?」と・・
それは「命令」ではなくて「相談」ですよ!
司祭
いいえー、命令もありますよ。昔は命令でしたよ。うん。
??? 〔神父様は話の筋が分かってらっしゃるのか?〕
・・・(笑)
司祭
うん、命令ですよ。
どうして立場が同等の者に対して「命令」できるんですか!!
司祭
できません? それじゃあ、何て言う?
別の言葉でもいい、そしたら何て言いますか?
??? 〔だから立場が同等の者にはそもそも「命令」など「できない」と言っているのですが、神父様は何を私に訊いてるんですか?〕
何がですか?
司祭
「ねぇ。行ってくれる?」
立場が同等だったらそういう言い方しますよ。
司祭
そうでしょ。どうしてそんなに言葉にこだわる?
兄弟として目上の院長さん、兄弟の中の責任者だ。
???
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