2006.04.29

札幌の司教様に初めての手紙

† 主の平安
カトリック〇〇教区の裁治権者であられる〇〇司教様。
突然に、またこのような長文の手紙を送りますことを、どうかお許し下さい。
私は、〇〇教会に所属する信者で、〇〇〇と申します。
さっそくですが、お手紙を差し上げます理由を申し述べさせて頂きます。
実は、現在、私と〇〇教会の主任司祭である神父様との間で、一つの問題が発生しています。
その問題を一言で申せば、次のようになります。
「私は御聖体拝領の際、是非とも跪いて主をお受けしたいと念願していますが、それを神父様は決してお許しになりません。」
これについて私と神父様は延べ数時間話しましたが、どうしても解決しません。
両者の主張を要約すると次のようになるかと思います。
[神父様]
典礼上のそのような事柄については、日本の司教団にその決定権がある。過去において聖座は、各国の司教団にその権限を与えた。
その権限とは、教会法に基づきながらも、各国固有の民族性(文化、慣習など)にふさわしいように、典礼上の諸事項を現実に適応することである。
聖体拝領の際の信者の姿勢については、日本司教団は、過去において、「日本では、ひざまずく代わりに、合掌して深く礼をする」と定めた。
この定められたことに対して教会の信徒が等しく従うことが、教会の一致のしるしとなる。
であるから、この指導に従わない者は、カトリック信者として御聖体を受ける権利そのものを失うことはないが、現実として、その不従順によりそれを受ける機会を失う。
司祭は、跪いたままの信者に聖体拝領を拒否する権利を持つ。
[私]
日本の司教団が聖体拝領の際の信者の姿勢について、そのように定めていることを、私も知っている。
確かに司祭の言うように、これは日本司教団が聖座から正式に認められた、いわゆるインカルチュレーションに関係した司牧上の権限に立って定められたものであろう。
しかし、その国の民族性に適応させた形で定められた典礼上の信者の動作は---その規定は---どれほど「絶対的」なものなのであろうか? むしろそれは「標準的」なものではなかろうか。「日本の教会においては、聖体拝領の際、信者はひざまずく代わりに合掌して深く礼をすること。これを標準的なものとする」ということではないだろうか。
しかし私から見ると神父様は、「これを絶対的なものとする」と言っているようである。何故なら、彼は「私はあなたが立たなければ御聖体を決して与えない」と言うからだ。
これほど絶対的かつ固定的にインカルチュレーション上の取り決めを現実に適用するのは、私から見ると明らかに行き過ぎのように思われる。
そして・・・
2004年3月25日に、教皇庁典礼秘跡省から、"Instruction - Redemptionis Sacramentum"
(指針 あがないの秘跡)という文書が、全世界の教会宛に公布されました。この指導的公文書のことは神父様でも知らない方が多いようですが、バチカンのホームページで誰でも閲覧できます。
その中に次のような文言があります。
[91.]  In distributing Holy Communion it is to be remembered that “sacred ministers may not deny the sacraments to those who seek them in a reasonable manner, are rightly disposed, and are not prohibited by law from receiving them”.[177] Hence any baptized Catholic who is not prevented by law must be admitted to Holy Communion. Therefore, it is not licit to deny Holy Communion to any of Christ’s faithful solely on the grounds, for example, that the person wishes to receive the Eucharist kneeling or standing.
[第91項]  聖体を配るにあたっては「聖務者は、適切に秘跡を求めるものに対し、そのものがふさわしく準備しており、かつ教会法上秘跡の拝領を禁じられているものでないならば、それを拒んではならない」ということを記憶しておくべきです(177)。ですから、洗礼を受けていて、教会法上問題のない信徒はみな、聖体拝領を許されなければなりません。したがって、例えば、ひざまずいて聖体を受けたがっていたり、立って受けたがっていたりするという理由だけで信徒が拝領を拒否されるのは違法なことです。
司教様。これは明確な表現です。そして私は、これは本来は議論など要しない「常識」の部類のことでさえあると思っています。ごく普通に考えられるべきもの。私達の信仰にとって当たり前な、健全さと平和と安心をもたらすもの。ごく当たり前の共通認識の一つにするべきもの。そんなふうに感じています。
インカルチュレーションとは、本来何のためのものだったのでしょうか?
それはもちろん、良い意向のもとに考えられたものでした。私も、典礼文の母国語化などには恩恵を感じています。それは人間に対する教会の愛によって起こったことでした。少なくともその筈でした。
でも、ここに来て、ある司祭においてはそれはかなり「全体主義的」な様相を強めて来たように、私には思えてなりません。
それは健全さと、バランスと、本来の目的を見失った状態のように見えます。
私には、インカルチュレーションの上で取り決められたことは、その国での「標準」を意味しているもので、決して「跪く信者に御聖体を与えない」ことを正当化するものではないように思われます。聖座は言います、「ひざまずいて聖体を受けたがっていたり、立って受けたがっていたりするという理由だけで信徒が拝領を拒否されるのは違法なことです」。
「違法(not licit)」は決して弱い言葉ではありません。ある特定の国や地域に例外を認めるような表現とはとても思えません。
今迄、聖座からこれほど単純にして明確な指示が出たことはなかったと思います。それはおそらく、他の国の教会でも同様のことがあり、つまり跪くことで聖体拝領を司祭から拒否される信者達がいて、彼らが聖座に嘆願書を出しているからです。
聖座は「インカルチュレーションの上での取り決めは、ただ標準的なものとするにとどめなさい。跪いた信者から、聖体拝領の権利を事実上取り上げるようなことは明らかに行き過ぎです」と言っているように思われます。
ところが神父様は、この聖座の明らかな勧告を目の前に置いてすら、私に、「あなたは教会の一致のしるしである共通の動作に従わないというのだから、御聖体を受けることが不可能になっても仕方がない」と言い続けています。しかし「一致のしるし」とは本来、その名のごとく一つの「しるし(sign)」であって、「標準的なもの」というほどのものではなかったのでしょうか? 確かにある程度は大事なことです。しかし、主に対して謙遜に跪きたいと願う信者から、事実上聖体拝領の権利(権利で悪ければ機会)を奪うほどの力を、それに持たせるべきでしょうか? もし「しるし」にそれほどの力を持たせたとすれば、それは場合によっては「しるし以上のもの」を傷付ける可能性があるのではないでしょうか?
「しるし以上のもの」とは、信者の主に対する思いです。主に対する謙遜の心、愛の心です。主に対して謙遜を尽くし、心でも体でもそれを表現したいという、真面目な、心からなる願いです。
そして一方、跪きは「教会の一致のしるし」に多少変質を加える可能性はあるとしても、どう見ても「教会の一致そのもの」を壊すほど破壊的なものではないように思われます。ある者が立って受け、ある者が跪いて受けることが、教会の分裂を生むでしょうか?
30〜40年くらい前迄は、この姿勢は決して珍しい動作ではなかったようですし、むしろカトリック信者にとってはごく当たり前の標準的なもので、神に対する謙遜の姿勢としては唯一とも言われるべきものだった筈です。また聖人達も常にこの姿勢をもって神に謙遜を表わすことを好みました。どうして今の時代において、この基本的には最上の表現がこれほど強固に排除されなければならないのでしょうか? 私には全く分かりません。
神父様は、私の神に対する謙遜の表現を、「個人的なわがまま」として、「動作を通して表現され宣言されるべき教会の一致のしるし」のために、あるいは「直属の長上に何としても従うべき」という掟のようなもののために、私達の信仰にとって最も中心的な場所であるミサ聖祭から追い出そうとしています。
これは健全なことでしょうか?
私は、私達の札幌教区の裁治権者であり、また教会行政法制委員会長でもあられます司教様に嘆願致します。
この事態を解決に導くために、どうかお力添えを頂きたく思います。どうか神父様に働きかけて下さい。
(実はフランシスコ会日本管区長様にも既に申し上げましたが、返事はまだありません。)
どうかこの問題の本質を、素朴に、単純に、幼子の心をもって見つめ直して頂きたいと、私は司教様に懇願致します。
今のままでは、私は私に対する神父様の仕打ちがどうしても不当に思えますので、この問題を引き続き追及しようと思います。場合によっては、私は非力な末端の一信者ではありますが、自分のでき得る範囲で、この事例につき聖座に報告を入れるつもりです。今や神父様のことを憎んではいません。が、これは信者の霊魂に関わる問題なので、私は根気よく聖座に通告し続けるつもりです。
それでは、読んで下さってありがとうございました。
お返事頂ければ幸いです。またあるいは、私も札幌に住む者ですから、司教様のお話を伺いに司教館に赴くことも容易にできます。
それでは、失礼致します。
アヴェ・マリア!
2006.04.29
[氏 名]
P.S. 言い忘れました。「跪いて主をお受けしたい」などと言うと、よく「何か特殊な団体に入っているか影響されているのではないか」と思われることがありますが、私にそのようなことはございません。ただ諸聖人方が跪いていたことは知っています。そして諸聖人方の御聖体に対する思いも知っています。私はただ彼らに倣いたいだけなのです。
また、最初に申し上げるべきでしたが、私は古参の信者ではありません。それどころか先日の復活徹夜祭で受洗したばかりの者です。ですから、最初の2回は立って受けましたが、その後「やはり私の為に命を捨てて下さった主の御体をどうしても跪いてお受けしたい」という自分の気持ちを確かめましてからは、神父様との間で御聖体を頂けない状態になってしまいました。どうかこの苦しさをお察し頂きたいと思います。
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