2006.05.04

昔の典礼文から削除されたもの

日本の典礼委員会はまた日本の典礼文の改訂作業をしている、と聞きました。
もう最終段階なのでしょうか。
何をそんなに変えたいのでしょうか。全く理解に苦しみます。
うちのミサ?
典礼フォーラム2005の報告
テーマ「うちのミサについて夢を語ろう」
今日付けのカトリック新聞に「聖体についてのシノドス」という見出しで、横浜教区の梅村司教が、最近、典礼についてローマから出された指針に対して日本の司教団を代表して希望を話されたという記事がありました。その内容は「適切な文化内開花を」という見出しで、「典礼が日本人に本当に受肉するということが課題である。日本人にぴったりとする典礼にするためにどうか自由を与えてください」ということです。典礼をその土地の文化に合った形にするというのが、第2バチカン公会議の大切な課題です。
ローマの指針によりますと、もっと典礼で使われる言葉を元の言葉通り忠実に訳しなさいということなんです。それは困る、典礼の改革の流れをストップしないでください、というアジアの司教の共通の考えなんです。
聖座の意を汲まないで「それは困る」と言っちゃうわけですよね。彼らにとって典礼は、神に由来する神聖なものとしてより遥かに多く、人間の文化から成り立っているもの。それ故かなりの部分において人間が自由に手を加えてもいいもの、であるようですね。そして「神は愛だから、当然人間の文化に理解をお示しになるし、お愛し下さる」という訳でしょうか。(言葉や理屈はどこにでも立ちます。言葉や理屈で、人はどのようにも神の像 ─ かたち ─ を作ることができます。)
「適切な文化的開花」ですか。しかしその「適切」は誰が決めるのですか。司教様達ですか。それとも識者や信者を交えた総意ですか。
聖座の文書にもよく出てきますよね、「適切な配慮が求められる」とか。しかし、言葉とは危ういものです。
何が適切か適切でないかは、人間の頭脳よりもハートに関するものですから。ハートというか、心と霊における感受性です。それらには、慣習や迷信などを含んだものから、普通の人間的な心の感性、そして聖化された霊魂の感受性まで、いろいろ段階があると考えられます。それを、誰が見分けるのですか。簡単に「適切」とか言ってもらいたくないです。
私が思うには、典礼における「適切」を見分けることができるのは、聖化された霊魂だけです。
また、「日本人に本当に受肉」と言いますけれど、皆さん、お聞き下さい、私は日本人ではありません。それ以前に一人の霊魂です。そしてもう一つ浅いレベルにおいては、私は世界人です。次くらいにやっと日本人です。確かに日本人です。でも要するに、私はそんなに日本人でなくてもよいと思っています。世界の文化を吸収することに何ら抵抗を覚えませんし、何よりも、一・聖・公・使徒継承のわれらが公教会の聖なる伝統や習慣をわが体内に取り込むことに霊魂の無上なる喜びを感じる者です。司教様、こんな私は相当の変わり者か、あるいは古い言葉で言えば「非国民」なのでしょうか?
これ以上典礼のどこをいじろうとするのか、私には全く理解できません。
2001年に典礼秘跡聖省が公布した教令『Liturgiam authenticam』にはこう書かれてあるそうです。
その地域の司牧的コミュニケーションで一般的に使われている言語と、聖なる典礼において使われる言語とは、明確に区別されなければならない。
この教令は、これまた日本司教協議会が翻訳しなかったのでしょうが、しかし基本的には、日本人は今から5年前に、典礼上の言葉の問題について、日本の司教団や聖座に声を挙げることができた筈です。でも、それはありませんでした。日本人の信者の誰も、少なくとも充分に影響力を及ぼすような形では、疑問の声も訴えの声も挙げませんでした。それでよかったのですか?(生意気な新人からの声です。)
そうして、これからはどうするのですか?
日本の司教達は、このような聖座の指示に対して、「それは困る。日本人にぴったりとする典礼にするためにどうか自由を与えてください」と言うわけですから、彼らは「何故聖座がこのような指示を出すのか」について理解しないということですよね。頭では理解しても心では分からない。彼らの霊(の感受性)はこう言うわけです、「聖座の言っていることは重要ではない」。
彼らの感受性にとっては、御ミサ中の「回心の祈り」から、三度胸を打ちながら「これは私のあやまちである。私のあやまちである。私の大いなるあやまちである」という動作と言葉を削除することは、そんなに問題であるとは思えなかったということです。むしろ「そんなに毎回重々しく痛悔する必要があるのか? そんなんで誰がカトリック教会に来たいと思うだろうか?」と感じた可能性がある、ということです。「また、あなたの霊とともに」を「また司祭とともに」という漠然とした、一般的な幸いを祈る言葉のように変えることにも、彼らの感受性は抵抗を感じなかったということです。その他、
「主よ、深くへりくだり痛悔の心をもってささげ奉るわれらを」
「われらは、深くへりくだって祈り奉る」
われらは罪人なれど」
不肖の私は」
「私に与え給うたすべての善に、私は何をもって主に報いてよかろうか」
「主よ、私は主をわが家にむかえ奉るに足らぬものである」
などという言葉をミサ聖祭から削除しても彼らは一向気にしなかったということです。本当に、これら昔の御ミサにあって今の御ミサにない言葉を見ていくと、典礼書改訂にあたった司教様方は、御ミサから、私達の信仰から、私達の霊魂の死活にに関わる事柄から、「罪の痛悔」と「神へのまことの謙遜」という二つの要素をなくしてしまいたかったのだろうとしか思われません。そして、なるほど、これらの言葉を残しておいては、聖変化の時や聖体拝領の時に立っていることは難しくなるわけです。(典礼文の言葉は主として司祭のものだれど、方向性、精神性として。)
さて、日本の典礼委員会が今後日本の典礼にどのように手を加えていくのか、それはまだ未知数ですが、私達としては『指針 あがないの秘跡』の次の言葉をよく覚えておきましょう。
183 完全に特別な方法で、至聖なる秘跡である聖体があらゆる不敬や歪曲から守られ、すべての濫用が徹底的に正されるように、各自が持っているかぎりの力を出してことにあたるようにさせましょう。これはすべての人が負わなければならないもっとも重要な義務であり、好むと好まざるとに関わらず、すべての人にそうする義務があるのです。
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