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2006.05.30

洗礼志願者に罪について教える必要を認めない司祭

私達の神父様は「洗礼志願者は受洗前に必ず『罪』と『ゆるしの秘跡』について明確に教えられなければならない」と考えていません
私は、これは驚くべきことだと思います。彼の考えでは、洗礼志願者は、「罪とは何か」を知らぬまま、教えられぬまま、ある日洗礼を受けることを許されるらしいのです。
私が訊いたら、彼は苛立たしげに答えました。
「だって私は、教会に入った人がそんなに直ぐ重大な罪を犯すとは考えていませんよ。そんなに直ぐ教えることなんて必要ないです!」
こんな事もありました。
私と同期で私より一日遅く受洗した青年が、彼の70代後半の代父に「普段の罪については御ミサの中の回心の祈りで十分でないか」というようなことを言われたらしいのです。
それで、先週のことですが、勉強会の質問の場で、私が彼に代わって神父様に訊いてみたのです。(おせっかい)
すると、神父様の口から出た「ゆるしの秘跡」についての最初の言葉は、「主イエズスとのより深い出会いの場」とかいうものでした。
告解の場はそのようなものだというのです。
寝惚けたことをおっしゃるものだと思って、またちょっと言葉をかけたりして。
すると神父様も最近私の傾向を熟知してきた模様で、ちょっと異常にキリキリと憤慨した反応を始めました。
しかし、帰りがけ、神父様に『指針 あがないの秘跡』と先日の「典礼秘跡省からアメリカへ」を印刷したものを手渡しました。
「参考として、もしお読みになるのであれば」と言って。
神父様の心の中には、今、何があるのでしょう。「典礼秘跡省からアメリカへ」の中には明確にこうあるのです。
当省が『ローマ・ミサ典礼書の総則』の第160条第二段落によって、司教協議会に対し許可された適応に従い、聖体拝領のための姿勢として立っていることを規定した規則を認めた地域であっても、跪くことを選ぶ信者が聖体拝領を拒否されないという条件の下に、当省はそれを認可したのです。
私が『指針 あがないの秘跡』を手渡した時、神父様は
「あなたの言うその箇所はどこにあるというのだ。言ってみなさいよ」
という感じで訊いてきました。
そして次に、
「どこの誰がこれを出しているの。問題のある人達かも知れない」
と言いました。
(何の根拠があって、そのようなことを言うのか。)
私が「しかしインターネットで誰でもその原文を読めますし、彼らの翻訳には問題はありませんよ」と言うと、「ああ、そう。でも、たとえ教皇庁がそう言っていたとしてもね、日本では日本の司教団に従って下さい」と彼は結びました。
それにしても、彼の何という嫌な心の流れ、心の質でしょう。
彼は、もし自分達が聖座から少しでも命令的な口調で言われるならば、
封建的だの強権的だのと言って否定するでありましょう。
それでいて、信者に対しては、このような高圧的な態度を取るのです。
彼は疑いなく、彼にとっての「危険分子」や「不平分子」を検閲し、抑圧し、迫害し、場合によってはどんなに筋の通らない方法によってでも、それを排除しようとするでしょう。
言い過ぎましたか?
しかしカリフォルニアでは、“Restore The Sacred” という信徒グループが、ミサ中のある箇所で跪くことを禁止しようとする試みに対して率直な批判をしたからというので、「教区から出てはどうか」と司教によって誘われたらしいです。(参照: Do Catholics Have A Right To Kneel?
どうして自分達が聖座に対して嫌っていることを、何の疑問もなく信者にはできるのだろう? この程度の自己矛盾にさえ気づかない、または知っていながら気づかないふりをしている人達に、私達は真理への道案内を頼まなければならないのだろうか?
(因みに、私自身は聖座が私達の国の司教団にもう少し強権をふるってくれることを望んでいる。ここではただ彼ら司牧者達の自己矛盾を言っている。)
私の感じ方は大袈裟だろうか?
どうして教会の司牧者はこれほど俗人の様相を帯びるようになったのか?
私の目には、今の教会が、今迄幾人かの聖なる人達が預言した姿(もちろん悪い姿)とまったく寸分違わないように、予定通りに動いているように見えて、その見事な一致に神秘さえ感じるほどです。
いや、本当に神秘です。だって、彼らまた彼女らのその種の預言は、そんなに隠されていたものでしたか? また私達には、その「第三」の部分がおぼろげにであれ予想できるファチマの預言もあったのではないですか? それらは明らかに警告していました。しかし今、それは警告ではなくて教会がそれに沿って忠実に歩くべき地図か青写真のようなものになったかのようです。
司祭と話していて、「どうしてこの司祭はつい半世紀前迄は正統なものとして認められていた筈の信仰の諸要素に対して、これほど感情的な敵意のようなものを向けるのだろう?」と不思議になることがあります。私はそれほどオカルトチックなことを好む人間ではないつもりですが、彼の後ろには何かがいて、私が彼に教会の古い伝統のことを向ける度に、ふだんは抜け目なく隠れているそれらが、途端に騒ぎ出すんじゃないか。そんなことまで考えたくなります。
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