2007.04.12

司祭「復活はイメージ」

あるブログから。
2007-04-08 今年の復活祭
今朝は9時のイグナチオのミサに出たのだが。。。お説教の段で、A神父様が復活を事実でないとお話しになった瞬間、はっとなった。今日の福音は、マグダラのマリアが無人の墓を見て仰天し、「主が誰かに取り去られました」と直弟子のペトロとヨハネのところに駆け込む場面なのだが、聖書には、恐ろしいぐらいリアルな筆致でキリストの復活の事実が描かれている。わざわざ、体を包んでいた亜麻布と頭を包んでいた布とは別々に丸めて置いてあったと記載されているほどリアルに描かれているキリストの復活を、神父さまの説教では「復活はイメージで、要はキリストが弟子たちの心のうちで ‘生きている’ ということ」だと強調されたのである。
私にはなぜ神父様がわざわざキリストの肉体的復活についていいわけがましいことをおっしゃったのかがわからない。私にはキリストが肉体的に復活されたと言われるほうが納得がいく。世界中で歴史上、死者が復活したためしはないことくらい、私にもわかる。がしかし、だからそれが奇跡なのだと信じるのがわれわれ信者なのではないだろうか。同時に聖母マリアの処女懐胎についても。
キリストがただ残った信者の心のうちで生きているというだけなら、それはただのメモリーに過ぎず、キリスト教が世界的宗教に発展した理由にはまったくならない。どういう奇跡であれ、「信じます」と誓ったのがわれわれ洗礼を受けたキリスト者なのだから、そこに科学的説明などいらないのだ。本当は。
神父様のご説教を異端ではないかと私はあせって周囲を見回したが、日本人としての礼儀なのかそれとも納得しているのか、誰もが無表情にその言を静かに受け入れているようだった。
内容についてだが、私は最後の部分も気になる。
つまり、こんなことなら、一般信徒も一種の “共犯” である。
後日の追記
このブログはその後(2009年頃だったか)閉鎖された。
ご自分が閉鎖したサイトの記事を表示されたくはないかも知れないが、表示する。しかし、URL は取り除いた。
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