2007.07.25

「あっちこっちミサ」における典礼の破壊

以下に紹介するのは、教会の青少年部を中心に不定期ではあるが全国規模で行なわれている通称「あっちこっちミサ」の第三回大会(2006年5月21日)の模様である。
まあ、第一回2002年、第二回2003年、そして第三回2006年と、それほど頻繁に行なわれているわけではない。でも、このようなことができるということから、最近の神父様方の「ミサ聖祭」に対する意識の幾分かが、確かに垣間見られるというものではないだろうか。
第三回のテーマは「おうちに帰ろう」というものだったらしい。ミサの始めに信者は「ただいま!」、司祭は「おかえり!」、そして最後には「いってらっしゃい!」「いってきます!」という大きな声が御聖堂に響いたらしい。「分かち合い」と「一体感」ということがまたミサの中心に置かれたのは勿論である。
皆さん、どう思われるだろうか。これが「カトリックの典礼」だろうか。
京都教区 河原町教会 都の聖母地下聖堂
これは明らかに間違った仕方の両形態拝領である。
(「両形態の聖体拝領について」を参照されたし)
このような仕方の両形態拝領が間違ったものであることを誰の目にも明らかに、他に解釈のしようもない極めて明確な表現で示した『指針 あがないの秘跡』(典礼秘跡省)が公布されたのは、2004年3月25日である。そしてこの京都での「あっちこっちミサ」の日付は2006年5月21日である。この二つの間の丸二年の間、日本の司教協議会は、典礼委員会は、そして京都の教区長は、何をしていたのだろうか。
そしてまた、今日は2007年7月25日である。この画像が掲示されてから丸一年が経っている。その間、京都司教区は、あるいはその指導の下にある「京都カトリック青年センター(Kyoto Catholic Youth Center )」は、いったいどのような神経をして、この画像を公衆の目の前に置き続けて来たのだろうか。
上長に従順であり人に寛容であるあなたも、少なくともこう思うべきではないだろうか。「これはあまりに緩み過ぎである」と。
というより、むしろこう言うべきであろうか。
「SSPXなどより遥かに聖座に対して従順で忠実である筈のあなたは、当然そう思う筈である。『緩み過ぎだ』と思う筈である。そうでしょ?」と。
(あぁしかし、今日私はSSPXについて書くのではない。)
因みに、この教会には前科がある。参照
さいたま教区 群馬県 館林教会
ここにはこういう記述がある。
ミサの内容としては「ミサ中福音ミニ劇」が、今回のさいたま教区のもう一つの特色だったと思います。前泊して、グループごと(3つ)にそれぞれ割り当てられた福音箇所を読んで分かち合いをし、ミサ中にそれを演じて、今回のテーマを実際に体で感じてもらおうとスタッフで考えました。出来上がった劇内容はとてもコミカルなのですが、「おうちに帰ろう」というテーマを参加者はそれぞれ考え、"おうち"に神の大きな愛があるということを感じ、いろいろな思いを込めて演じたのではないか、と劇を見ながら思いました。
どうやら「ミサ中」に、若い信徒達(子供達)の手作りによる劇が行なわれたらしい。
このようなミサ中の試みに反対して、子供の飛んだり跳ねたりする喜びを疎外する私は、悪い大人なのだろうか。しかしミサの中で子供を子供らしくあらせることが本当に子供のためになるのか。人生には大人が子供のために善かれと思ってしたことが却って裏目に出ることが幾らでもあるではないか。そもそも司祭が信仰の中の真の喜びというものを掴めていないのであり(たぶん)、教える者がそうだから大人の信徒も同様となり、両者揃って人間の人間的な頭を下手にひねって考えようとするから、このようなものしか思いつかないのである。「嬉しい、楽しい」には違いなかろうが、それが信仰のものではないということを、大人も気づき、子供にしっかりと伝えるべきではなかろうか。
東京カトリック神学院
日本を代表する神学校のブラザー達もあっちこっちミサ。
ブラザー達も「〜♪お・う・ち・に・かーえろー♪〜」と歌ったのでしょうか。
岡山教区 岡山南教会
ここにはこういう驚くべき記述がある。
式次第については準備が不十分であったため、ミサ中訂正があったりした。」!!!
神父様方の心にとって、今、「ミサ聖祭」というものがどのようなものになってしまっているか、これでわかるというものである。まあ、ここまで極端なのはまだ珍しいだろうが。
福岡教区 北九州地区 戸畑教会
このドラムが「ミサ中」、「おうちへ帰ろう」のオリジナル曲が終わるまでの間、大きな音を立て続けたのだろう。
また、このページにリンクされた「詳細」のページは、「ミサのはじめ、『ただいま!!』という所ではあまり大きな声が聞かれなかったが、派遣の祝福後の『行ってきます!!』では大きな声で聖堂が包まれました」と、いとも喜ばしげに報告している。
ミサは「宴会」なのでドラムぐらい叩くのは当然だし、御聖堂は「おうち」なので、子供が喜んで大きな声で「ただいま!」と駆け込んで来てもOK、ということになるかも知れない。
それとも、親はこう教えるだろうか、「お祈りしている人がいるから静かにしなさい」。しかし、「主の御前であるから静かにしなさい」という考えは、綺麗さっぱり消えてなくなるのではないか。「御聖堂に居る時には御聖体の内に主がまことにましますことを思い、また主の尊き御犠牲のことを考え、自分や人類の罪のことに気づいていなければなりません」とは教えられなくなるのではないか(いや、既にそうなっている)。
つまりどういうことかというと、常に心でそのように思っていることは──「罪」やら「御犠牲」やらを思うことは──現代のカトリックの司祭と信者にとってはすっかり「辛気臭いこと」になってしまったのである。
福岡教区 福岡地区 浄水通教会
ここでも「ミサ中」、こんな演奏。
このミサに与った信者さん達の肯定的な意見の数々はコチラ──しかし、そんな感じなら(私はその意見の数々を見た)、どうしても「カトリック」である必要はないだろう。人の喜びにケチを付けたくはないけれども。
このミサに与った人のどれだけの人が、「御聖体」を意識したか。それを「礼拝」したか。
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