2007.08.10

秋田の聖母と聖ピオ十世会

安田貞治神父著『現代の奇跡 秋田の聖母マリア 聖母像の涙とメッセージ』(聖体奉仕会、昭和六十一年刊)(改訂版)を、たまたま古本屋で見つけて購入し、読んでみました。もっとも、私は昔、この本の全文を掲載していた「秋田の聖母マリア・名もなく貧しき会」というサイト(現在閉鎖、キャッシュ)で読んでいますので、これは再読ということになりますが。
以前読んだ時はカトリック信者になっていたかどうか、よく覚えていませんが、とにかくその時は、典礼問題についてよく知らなかったようです。
再読して気づいたことを、この物語から引用しつつ、以下、列挙してみます。
  1. この御出現はノヴス・オルド環境の中でのものである。
    シスター笹川は御聖体を手で受けている。
 司祭の居ない山の修院では、初金曜のミサも、町の教会か他の修道院に出向かねばならなかった。この日は市内のS修道院であずかった。聖体拝領の際、姉妹笹川は一瞬ためらったが、痛む手を包帯のまま開いて、他の人と同様に拝領をすませた。
p.63
「他の人と同様に」とありますから、おそらく他の修道女達も、この当時、手による御聖体拝領をしていたのでしょう。
 最も堪えがたかった激痛の時は、時間としては一瞬のものであったかもしれないが、痛みの烈しさからは、とても長い忍耐のひとときに感じられた。
 聖体拝領の際は、そのころの習慣で、姉妹たちは手でお受けしたが、彼女はどうにも手を開くことができず、直接口に拝領した。
p.87
この出来事の日付は1974年7月26日。そして日本の司教協議会の申請に応えて使徒座が聖体を手に授けることを許可したのは1970年6月27日参照)。だから、この出来事があった時には、聖体奉仕会でも御聖体を手で拝領することが既に「習慣」となっていたのでしょう。(典礼暦はまだ昔のものを使っていたようですが。)
ちなみに、成相明人神父様はこのシスター笹川の手による御聖体拝領のことをこうおっしゃっておられます。
マリア像の涙、シスター笹川の左手にできた不思議な傷のことなどを考えるとき、わたしは日本に当時導入された手で受ける聖体拝領のことを思わずにはいられません。
私もそういう気がします。
しかしまた、思います。
「それならそうと、天国はもっとはっきりと教えて下さればいいのに。」
何故なら、シスター笹川はご自分の守護の天使様からしばしば話しかけられているからです。
この女の方は、こののち、まる九年間にわたってしばしば姉妹笹川に現れ、何かと教え導き、ときには、忠告や叱責さえ与えることになる。
p.38
 真夜中ごろ、姉妹笹川は突然「起きなさい、起きなさい」と呼びさまされた。まぎれもない守護の天使の声であった。
 とび起きてドアを開くと、何か焦げくさい異様な臭いが廊下にたち込めている。臭いをたどって階下に降り、台所に入った瞬間、火の玉のように真赤に燃えさかっているヤカンが目についた。(中略)実は守護の天使にこのように実生活の上でも助けられることは、以後もたびたび起こるのである。
p.109
「やがて御聖体拝領の時になっても、なお呆然と居すわっていると、いつもの守護の天使がうながすように寄って来て、御祭壇のほうへ導かれました。その時、ありありと認めたのは、前に進む姉妹たちの右肩に寄り添うようにして、それぞれの守護の天使が(本人よりいくらか小柄な感じで)付き添っていたことです。わたしの天使と同じように、いかにも身近に、やさしく守り導いておられる様子です。これを目撃して、どんな委[くわ]しい神学的説明よりも、ひと目で守護の天使の存在の意義を深くさとらされた思いがしました。」
p.129
これは「新しいミサ」の只中でのことです。
シスター笹川を「何かと教え導き、ときには、忠告や叱責さえ与え」、ガスコンロの火にかけっぱなしにされた赤熱するカヤンの危険を真夜中にシスターを叩き起こすことで教えてくれる守護の天使様が、また御聖体拝領のまさにその現場でシスターに(他の姉妹の一人びとりにも)ピッタリと付き添って下さる守護の天使様が、もしも手による御聖体拝領が “汚聖” であり、若しくは少なくとも “不敬” であるならば、どうしてそのことをシスターに教えて下さらないのでしょうか?
私の思う理由は次のようなものです。
まず、「できないことをやらせるわけにはいかない」でしょう。
シスター笹川は良い修道女でしょう。しかし、「修道女」にとって “地上の教会が承認したものを咎める天国の言葉” を受け入れるということは、かなり難しいことでしょう。天国は彼女の心を見、彼女にはそれは無理だと見たのかも知れません。そして、できないことをやらせるわけにはいきません。彼女に無理にそれを言わせてしまうと、彼女の心(信仰)が危うくなり、またおそらく彼女の「修道女」としての身分も危うくなってしまうかも知れません。
しかし、そのような限界を持った修道女を通してでも、天国には、全人類に伝えたいことがありました。秋田のメッセージの中心部分であるこれです。
「もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。
 その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
 悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。
 特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。
 勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと贖罪の業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから」
pp.133-134
天国にとっても「状況判断」があることでしょう。もし「手による聖体拝領は汚聖である」と言うことによって上のような教会の壁さえ越えたような(「全人類」に対する)巨大で深刻な警告の伝達が阻害されるとするなら、天国は前者のような(手による聖体拝領に関する)特定的な警告を言うことを控えるかも知れません。
私は、確かに、天国の判断はそのようなものだったのだろうと思います。
しかしまた、私達は次のことにも気づかなければなりません。
  1. ノヴス・オルド環境の中で、御聖体からまばゆい光が放出され、天使達はそれを礼拝する。
秋田に於いて、手による御聖体拝領が旧典礼の中で行なわれたということはないでしょう。では、この祭壇はノヴス・オルドの祭壇です。
そして、次のように書かれています。
「長上の言葉通りに、聖櫃の扉を開こうと、そっと近づきましたところ、突然、聖櫃からまばゆいふしぎな光が現れ、それに射すくめられて、おもわずその場にひれ伏しました。
もちろん、聖櫃を開く勇気はありませんでした。およそ一時間もそうしていたでしょうか。何かの威光に打ちひしがれたように、光が見えなくなっても畏れとおののきから、頭を上げることができませんでした。」
p.19
祈りの姿勢で祭壇の奥の聖櫃に近づくと、たちまち、あの同じまばゆい光に打たれた。おもわず一歩さがり、ひれ伏して礼拝しつつ、「ああ、これは錯覚でも夢でもない。御聖体にましますイエズス様が、御自身をお示しくださったのだ」と確信し、その畏るべき光が消え失せたのちも、ゆかに伏していた。
p.20
「しばらくすると、以前に三回見たのと同じまばゆい光が御聖体から放射され、その光芒を包むかのように霞か煙のようなものが祭壇のまわりにただよっていました。そして祭壇をかこんで無数の天使たちのような姿が現れ、一せいに御聖体のほうに向かって礼拝していました。」
p.27
「その後念祷に入って、暫くたつと、昨日と同様に御聖体からの烈しい光を感じました。思わずひれ伏して礼拝し、目をあげてみると、また霞か煙のようなやわらかい光線が祭壇を包んでおりました。その中に無数の天使たちが出現し、光り輝く御聖体に向かって『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな』と賛美する高く澄んだ声が私の聞こえない耳にひびいてきました。」
p.35
「朝六時半からはじまった御ミサが、“聖変化” にまで進んだとき、急にまばゆい光があらわれました。それは前に(六月十二日から三日間)御聖櫃から放射されるのを見た、あの威光の輝きのような光でした。それが、まぎれもなく御聖体からさし出る、イエズス様の御存在の尊い光輝とさとらされて、まるで射すくめられたように、『わが主よ、わが神よ』と心にくり返しました。
その瞬間、輝く御聖体に向かって礼拝している天使たちの姿が見えました。御祭壇を半円形にかこむかたちで、こちらに背を向けてひざまずいている感じで、八人並んで見えます。(中略)わたしはおどろいて、目の錯覚か、とまばたきしたり目をこすったりしましたが、八体の姿は依然うやうやしく御聖体を礼拝しています。」
pp.127-128
これは「新しいミサ」の只中でのことです。
だから、「新しいミサはそれに固有のものとして涜聖の要素を含む」というのが真実だったとしても(真実だと思いますが)、尚、この物語からは次のように言えるのではないでしょうか。
  1. ノヴス・オルド・ミサの場合でも、少なくともその規定に忠実に且つ正しい意向で以て捧げられ聖変化された御聖体からは、このように燦然たる光が放出されるものであり、それは全くもって礼拝に値する
    (「全くもって」は過度の強調ではない。上の天使の姿勢を見よ。)
  2. 事実、天使様方もこのように恭しく礼拝している。天使様方がこのように礼拝している御ミサを、人間が「それは不敬であるから、それに与ってはいけない」と言えるものだろうか。
    カトリック信者が主日の義務を果たそうとしてノヴス・オルド・ミサの行なわれる教会に向かい、守護の天使様方がそれら信者の一人びとりに付き添う──というのが真実ならば、人はそれでも「そのミサは不敬だから、行く必要はないし、むしろ行ってはならない。家で祈るべきである」と言うべきだろうか。
さて、聖ピオ十世会のことです。
彼らは「新しいミサ」に与ることを勧めません。けれどまた、「新しいミサに与ることは罪です。それは許されません」というような、あまり単純な言い方も、本当はしていないのではないでしょうか。
私の理解するところ、彼らは次のように主張しているようです。
  1. 新しいミサはそれに固有のものとして涜聖の要素を含んでいる。
  2. 信者の主観的な罪の問題は天主のみが裁くことができる。
  3. しかしながら、人はもし新しいミサで客観的に涜聖が行われているということに気づいているならば(前提)、新しいミサに与ることは少なくとも小罪となる。
  4. 小罪と云えども「罪」であるから、知りつつ行なうことは許されない。
私は 1 と 2 には同意します。しかし、3 と 4 には疑問を感じます。
彼らは、3 と 4 は「倫理神学」なるものによって支えられる、と言っているようです。
しかし、この秋田の物語に於いて──
「新しいミサの中で眩い光を放つ御聖体」 を、私達はどう解釈すればいいのでしょうか。
「新しいミサの中で御聖体を礼拝する天使達の姿」 を、私達はどう解釈すればいいのでしょうか。
「新しいミサの中で御聖体拝領に向かうシスター達の一人びとりに守護の天使が寄り添っていること」 を、私達はどう解釈すればいいのでしょうか。
彼らの云う「倫理神学」は天使には適用されないのか?
変な質問かも知れません。誰も考えたことのない質問かも知れません。
しかし、私は秋田の物語を読みながら、本当にそう思います。
シスター笹川と伊藤司教様に関しては、「新しいミサに於いて客観的に涜聖が行われているということに気づいて」おられなかったのでしょうから、まあ、検討の対象から外しましょう。しかし、天使様方は?
彼らは間違いなく「新しいミサはそれに固有のものとして涜聖の要素を含んでいること」を知っていました。
それでいて、彼らは新ミサの中で活動しています。
新ミサの中で御聖体を礼拝する自分達の姿をシスター笹川に見せ、
新ミサの中で御聖体拝領に向かうシスター達一人びとりに寄り添います。
確かに、彼らは人間ではありません。
そして「神学」は人間のためのものでしょう。
しかし、それでも「神学」は、人間と同じく被造物である天使と全く無縁なのですか?
人間には許されないことも天使には許されるとするなら、やはりどこか変ではないですか?
私には、聖ピオ十世会が自身の考え方にどのような小さな “修正” も加えないまま秋田の聖母の物語を支持し続けることは、彼らに於ける小さな、しかし確かな “不足” に思われます。
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