2008.01.20

また一つ跪きが消えた..

今日は御ミサは所属教会で与かりましたが、カテドラル(北一条教会)にも久し振りに行ってみました。すると、どうでしょう、信者席が新調されているではありませんか。そして、見ると... これは今時の教会のこととしては「案の定」と言うべきでしょうか... そこには跪き台がありません!
日本のカトリック教会からまた一つ跪きが消えました。これで札幌市内の教会では、奉献の際に跪く教会は私の所属教会ただ一つになったのではないかと思います。
(言うまでもないことですが、奉献の時に跪かない教会では、信者はミサでただの一度も跪くことがありません。)
残念です。今まではこのカテドラルの聖堂には、通路を挟んだ中央部分に、跪き台の付いた信者席がかなりたくさんあって(両側はパイプ椅子ですが)、奉献の時には多くの人が跪いていたのです。でも、それももう終わりです。
カテドラルのWebサイトにある広報誌を見ると、このことのきっかけはパイプオルガンの購入らしいです。昨年の7月にパイプオルガンを入れたのですが、パイプオルガンは重量物だし、このカテドラルの建物はかなり老朽化が進んでいるので、建物の基礎を含め床の改修工事をしなければならなかったということです。それと共にエントランス部分も、数多い高齢の信者さん達の体のために、北海道としては珍しく玄関と建物内部の床がフラットな構造、つまり玄関で靴からスリッパに履き替えないで外靴のまま聖堂に入ることができるような構造に作り直したということです。そしてこの一連の工事の中で、「この際信者席の椅子も新しくして欲しい」という声が信者側から出たそうです。確かに今までの信者席は建物同様かなり古くなっており、しかも複数人が坐れる長椅子形式のものと一人用のものとがゴチャゴチャと混在していて、つぎはぎのようであり、あまり見栄えの良いものではありませんでした。しかし、それでもそれらにはみな跪き台が付いていたのです。そしてそれに坐った人は皆奉献の時には跪いていたのです。そしてパイプ椅子に坐った人も、その時は椅子から降りて床の絨毯に跪いていたと思います。それがこのカテドラルの習慣でした。
ホールにいた一人のご婦人に訊いてみたところ、「高齢の信者さんが多いので、体が楽なように、跪かなくてもいいようにということで、こうなりました」ということでした。床をフラットにしたのと同じく、ここでも「高齢の信者さん達のため」ということでした(そのご婦人が言うには、ですが)。
私も、ご老人達のことを悪く言いたくはありません。しかし、話は別です。
全体の眺望の中で、何を根本に据えなければならないでしょうか。人間の福祉ですか?
私は、札幌カテドラルは跪きを廃すべきではなかったと思います。跪きはカトリック的なものですし、カトリックの美しい習慣です。またこのカテドラルでも長年の習慣になっていたものです。そしてそれは誰の目にとっても「敬虔」のしるしです。しかも場所は「奉献」です。最も尊い恵みが天から地へ降りる途方もなく神秘な瞬間です。人間は本来「ひれ伏し」てもいいくらいの時です(これを「大袈裟」と思うことはカトリック信者には許されないことだと思います)。そんな時に、幸いにも習慣になっているものを、何故わざわざ廃止することを選んだのですか? 何故、基本はあくまで跪くこととし、しかし体のきついご老人は坐ることが可、というやり方を取らなかったのですか? 高齢の信者さん達がいかに多かろうと、そんなことをすべきではありませんでした。何故なら、祈りの姿勢(精神)は受け継がれるべきものだからです。今現在において数の多い高齢者さん達に合わせてそんな変更を行なったら、若い信者達、子供達、そして新しく教会に入ってくる人達はどうやって「跪き」(の精神)を学べばいいのですか? これによって、彼らの学ぶ機会は失われました。
もちろんわかっています。本当の解答は「ご老人達のため」ではないことでしょう。もちろんそれもあるでしょうけれども、より根底のところでは、「跪きはそれ自体では大したものとは思えない」ということなのでしょう。
しかし、現教皇様は枢機卿様当時、こうおっしゃっています。
信じることを学んだ者は、跪くことをも学びます。そして、もはや跪くことを知らない信仰あるいは典礼は、その本質において病んでいることでしょう。
ヨゼフ・ラッツィンガー著『典礼の精神』サンパウロ刊 p210
あるカトリック・ライターはこう言っています。
人はもしその時に跪かないなら、いつ跪くのでしょうか?
全くもってその通りです。
札幌カテドラルのこれらの工事を主導したのは、今時の教会ではどこでもそうなのかも知れませんが、どちらかというと(かなり?)信者側のようです。信者中心の「〇〇委員会」が案を作り、他の信者達に諮り、検討し、まとめ、司教様に報告し、最終的にお認め頂く、という形のようです。そしてそのような流れの中で、今の教会は時に、本来「祈りの法」に関わるようなことをも信者側に渡してしまうのです。また聖職者側も「跪きという姿勢一つは大したものではない、本質的なものではないから、その辺は信者さんの希望に沿う形にして問題ありません」というようなことを思います。
私はこのような司教区の考え方に大変疑問を感じます。事はこれだけではありません。ついでに書きますが、今日、英語ミサの直前に、外国人の女性が信者席の前の方でフォークギターをそれはもうジャンジャラジャンジャラかき鳴らして、歌を歌っていました。英語ミサはフォークミサで(私は参加しなかったのでわかりませんが)、その練習でもしていたのでしょうか? 全く祈りに集中できませんでした。司教区はこのようなことをどう考えているのですか?
また、広報の2006年9月号にはこうあります。
聖体拝領時の祝福は司祭だけでなく聖体奉仕者も行うこととした。」
現在の教会ではこのようなことが許されるのでしょうか? 私は不勉強かも知れませんが、しかし祝福は普通、叙階された人の聖別された手によってされるものだという気がするのですが。
聖体拝領の時の行列が二列か三列であり、祝福を求める人が現われるたびその人を司祭の方に回すことは行列を乱すことになるし、そして何か面倒臭いから、この際聖体奉仕者でも祝福を与えることができるようにしたのでしょうか? ゲスの勘繰りですか? むしろそうならと願います。
でも、もし私のその想像がまんざらでもないなら、私は言いたいです。
どうして信者の高齢とか、司祭の高齢とか、行列がどうとか、ミサでの信者の数が多少多いからとか、そういう「人間側の事情」によって「典礼」を変えるのですか、あるいは「緩める」のですか。どうして人間の置かれた現実に押しまくられて、否、実は抵抗する気もそれほどなく、簡単に典礼を変えてしまうのですか。どうして「人間の領域」をして「天主の領域」を “侵犯” させるのですか。
典礼はだれの私的所有物でもありません。
神秘を祝う司式者のものでもなければ、
そこで神秘が祝われる共同体のものでもないのです。
教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『教会にいのちを与える聖体』より
あなた方は「召命が足りない」と言いながら、他方でそんなことをするのです。自らの「司祭職」をゆるがせにするのです。天主への「崇敬」(跪き)であるべきものを普通の「敬意」(立って頭を下げる)程度にまで引き下げてしまうのです。そして滅多に聖母のことも他の聖人のことも話さないのです。ルルドやファチマで聖母がどんなに繰り返しても、信者にロザリオを勧めることが全くないのです。訊けば、「ああ、ロザリオ、それもいいでしょう」と答えるだけです。──それで、召命を増やしたいのですか?
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