2008.02.06

日本の全司教様に書き送りました

昨日、日本の全司教様(補佐司教様も含めて17名様)に次のような手紙を送らせて頂きました。
† 主の平安
突然このような沢山のペーパーをお送りして申し訳ありません。しかしどうか「送りつける」という言い方を思い出さないで下さい。確かに平信徒の身分で、しかも司教様の管轄外の場所からこのようなものをお送りすることは、普通ではありません。それは分かっています。でも、私はカトリック信者で、日本人で、要するに日本のカトリック信者です。それ故、主題によっては、私が私自身の教区以外の司教様に信徒としての声を聞いて頂きたいと願うことは、必ずしも不適切ではない、と私は思っています。どうか日本に住む日本のカトリック信者の一人である者の声を聞いてやって下さい。私はもちろん、専門的なこと、あまり学術的なことは分かりません。でも、(こんな言い方もどうかと思うけれども)信徒としての素朴な心を司教様にお届けすることができます。「単純な心」をお届けすることができます。
今後も時々お便りを差し上げるかも知れません。それは私の勝手な行為です。もしかしたら司教館のゴミ箱の中身を増やすだけの、司教様と司教館にとっては迷惑なだけのものとして終わるかも知れません。でも、司教様、どうか少しは読んでやって下さいますよう、お願い申し上げます。
今日は「跪きについて」としました。それは私がちょうど最近、札幌カテドラルの信者席から跪き台が取り払われてしまったことを見たからです。札幌カテドラルから、信者達の中に長らく続いていたミサの奉献の際の「跪き」の習慣が、残念なことにきれいさっぱり取り払われました。私がこの手紙と共にここに同封しようとしているホチキス止めされた文書のコピーは、一カトリック信者であるこの者の嘆きが果たして「おおげさ」なものか否かを、色んな人達の証言から照らすものです。その中には、私自身の貧しい文章(「日記」)、教皇様の枢機卿様当時の神学者としてのお言葉(『典礼の精神』)の引用、インターネット上にある聖座高官やカトリック・ライター達の言葉の拙い私の試訳、そして最後に現代における預言者のような不思議な人の言葉の引用などが含まれます。特にインターネット(これは信用の置けない情報媒体ではありません)から取った文章に関して言えば、ここに掲げるのはあくまで「一部」であって、今やこのような事柄(「跪き」または「手による聖体拝領」等)に関する「同様の」論調が数多くあることを、私達は知っています。そして私は、これらの論調は決して「今や」ではなく、つまり「時代」や「時流」とは関係なく、「カトリック信仰の本質において正しいこと」だと信じています。神学について素人であるにも関わらず、私の貧しい霊魂において、そう確信しています。
全てを越えて尊ばれるべき私達の天主のご栄光のために、また私達が天主から頂いたこの最高の信仰、有り難き、聖なる、天上的な信仰のために、そして、司教様、この地上で最も光栄ある、祝福されたお仕事、あなた様の「司教職」のために、どうかこれらについてもう一度、改めて、考えてみて下さい、と伏してお願い申し上げます。
それではこれにて終わります。貴重な時間を割き、読んでくださいまして有り難うございます。また、何かお気に障ることがありましたら、どうかお許し下さい。
私達の天のお母様であられる聖母が、いつも私達のことを祈って下さいますように。
上の手紙に添付したもの
後日の加筆
「マリア・シンマなんか含めない方がよかった」というご意見を読者から頂きました。しかし私は、そのような見方があるだろうことを先刻承知でそうしたのです。何故なら私は、そのような未確定な霊的な話に対しても「自ら関心を持つ」ことのできる聖職者に期待するからです。カトリック信者は何かというと「教会に既に承認されているか否か」を考えます。つまり、ある意味「過去」ばかり見ています。しかし、何か新しいものが承認されたり否認されたりするためには、誰かが他の人に先んじて「自ら関心を持つ」ことがなければなりません。それが道理というものです。
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