2008.02.18

神父様からお返事を頂きました

今月6日の日記で「日本の全司教様(補佐司教様も含めて17名様)に沢山のペーパーを送らせて頂いた」ことを書きましたが、その後12日(火)に、お一人の方からそれに対するお返事をお手紙にて頂きました。
しかし正確に言えば、そのお方は「日本の全司教様(補佐司教様も含めて17名様)」に含まれていません。つまり、司教様でも補佐司教様でもありません。神父様です。私は司教様方の他、お二人の神父様に同じものを送っていました。この神父様はその内のお一人です。
「頂いたお返事を私のホームページ上で紹介させて頂けないでしょうか」とその神父様に問い合わせていましたが、本日「OKです」とのお返事を受け取りました。それで、以下に掲示させて頂くことにします。
この中には私に対する過分なお誉めの言葉とも取れるような表現、言い回しがあります。しかしそれは割り引いて、心の中で削除しつつ読んで下さい。
これは、日本に住む、日本人の、現役の神父様のお言葉です。
† 〇〇 前略 失礼します。
□□さんのお手紙、一字一句、大きな喜びと感動もて最後まで読ませて頂きました。その後、これなら日本のカトリックはまだまだ健在であると嬉しくなりました。□□さんのように感じておられる信者の方々は、かくれて多くいらっしゃいます。ヨハネ・パウロ二世は「バチカン II 公会議後、教会は多くのものを得たけど、又、多くのものを失った」と。〔中略〕30年以上前、ある信者の方が、“主人はせめて御聖体の前だけは跪いていたのに、これからはもう誰の前にも跪かなくなった” と嘆いていらしたのを思い出します。跪き台に限りません。神経をいらだたせるものは教会の中に多くあります。教会は世俗を聖化せんとして門戸を世俗に開いたのに、聖職者、信者のふがいなさの為に、かえって教会が俗化されつつあります。一事が万事です。歴史を見ても教会を支えていたのは聖職者だけでなく、無数の無名の信者の熱い信仰でした。
確かに外面的形式は時代により変り得るものですが、変らぬものは神への素朴な愛・忠誠心です。形式は第二のものかも知れませんが、しかし、形式によって長い間には精神も影響を受けます。跪かなくても信仰はなくなりませんが、跪くことによって体得する信仰は得られません。
現代は万事に於て世俗化しています。信徒の信仰も弱くなっています。キリシタンの信仰から遠く離れて、†よりも復活を、祭壇から食卓へ、司祭から司会者へ、低きへ低きへと流されています。
確かに時代の変遷もあるでしょう……が、“天地は過ぎん、されど、我が言葉は過ぎざるべし” “地獄の門これに勝たざるべし” 。
やはり人はあてになりません。聖職者も司教も。(人間的である限り。)色々な嫌なことを見聞する度毎に、この神様の自信一杯の聖言を思い起すことによって、気を静めています。
どうぞ、□□さんと志を同じくする者が、全国の教会にたくさん、いらっしゃることでしょうから、失望せず、祈りつづけ、嘆きつづけ、うまず、たゆまず、頑張っていきましょう。
恐れるなかれ、我なるぞ!
大いなる信・望・愛をもって筆を措きます。
御国の来らんことを。
乱筆御免下さい。
〔署名〕
この御書簡中、二箇所だけ伏せさせて頂きました。
一つは、冒頭のご挨拶の「†」の直後にある文字です。それは特徴的であるかも知れませんし、また意外とよく見かけるものかも知れません。私にはよく分かりませんので、一応伏せさせて頂きました。
そしてもう一つは、文中〔中略〕と表示したところにあった一行です。そこにはこの神父様の所属する教会の名前が含まれていたからです。
(しかし、神父様も、私も、別に人目を避けるべき “悪いこと” をしているわけではない筈です。どうも人間の世界っていうのは、難儀なものやなぁ(^^;ゞ
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