2008.09.19

近年の「シスター・ルチア」は『替え玉』である 1

参照して下さい。
後者は教皇座空位論者の文章であって、カトリック信者にとっては読むに若干不愉快なものですが、それでも読む価値があります。
1960年
「ファチマ第三の秘密」の開示に関して、確かに「1960年」が一つのキーポイントでした。それは遅くとも1960年に開示されるべきでした。
事実#3. ダ・シルヴァ司教が封筒を開けることを望まないことに固執していることを確証して、シスター・ルシアは、ガランバ聖堂参事会員の言葉によれば、「第三の秘密は彼女が死ぬか、あるいは1960年には、どちらが最初に起こっても、開けられて世界に対して読まれるべきであるということを司教に約束させた」。シスター・ルシアの繰り返された陳述についての一つの説明がわれわれに与える一連の証言はこの事実が絶対的な確実さで確立されることを可能にした。
事実#4. 最後に、シスター・ルシアの死後直ちに、あるいはいずれにせよ遅くとも1960年には秘密を公開するというこの約束は聖母マリア御自身による一つの要求に確実に一致している。事実、1946年にバルタス聖堂参事会員が幻視者になぜ1960年まで待つ必要があるのかと尋ねたとき、シスター・ルシアは彼にダ・シルヴァ司教がいる前で、「聖母がそう望んでおられるからです」と答えた。
(みこころネットさんのページが文字化けする時にはブラウザのテキストエンコーディングで Shift JIS を選択してください)
ところが、1960年到来の直前、シスター・ルチアは「見えなく」なったのです。そして、その年が来ても「第三の秘密」は開示されませんでした。
そして、シスター・ルチアの姿が見えない間、もう一つの事が通過しました。第二バチカン公会議。
シスター・ルチアが再び公の場に姿を現わしたのは、第二バチカン公会議が閉幕して二年後の1967年のことでした。
初期の頃のシスター・ルチアに会った人の証言を読んで下さい。参照
彼女は笑わなかった人ではありません。けれども、概して、人に「内気」の印象を与える人だったでしょう。
そしてそれはその頃に撮られた彼女の写真の印象と一致します。
(リクエストに応えてご出現時の聖母を真似る↑。
絵画制作のためらしい。参照
ところが、第二バチカン公会議後に登場した彼女はどうでしょう?
第二バチカン公会議閉幕から二年後、1967年5月13日、満を持したように世界にお披露目される「シスター・ルチア」。教皇様と共に大勢の前に引き出されても臆するところがないようです。
同日のレセプションにて。
他国の要人と闊達に挨拶を交わす外交官のような風情。
(写真が足りなければ、ファチマ公式サイトで更に見て下さい)
概して「明るく」「社交的」になったようです。
現代のテクノロジーにも適応します。
「しかし、それは “これこれ” の理由によるのでは?」
そのようにあなたの脳裡に次々と浮び始める「理由」というやつに気を付けて下さい。それをすぐに探し始めるあなたの精神機能に。
英語で「判断する」ことを「reasoning」と言うのは面白いと思いました。しかし、「判断する」するということが、「そんな筈はない」という思い込みやら期待やら願いやらと共に「理由を探す」ということであるなら、その探す過程は汚染されています。一つの「正当化のプロセス」、一つの「選り好みのプロセス」のようになってしまい、幸いな(クリアーな)判断過程とはなりません。
人間は高等動物であって「精神(mind)」を持ちますが、往々、それに邪魔されます。それで、「犬の方がマシ」な時があります。
だいたい両者は顔が違います。(犬なら吠えます)
次のようなページで更に見て下さい。
彼女はシスター・ルチアではありません。
ホーヴァット博士は言っています。
人々はしばしば自分の目の前にある現実さえ見たくないのである、ということは、なんと真実でしょうか。
「自分はそんな奇異な世界に住んでいない。そんな筈はない。世界はそこまで人の平衡感覚を奪うような変なものではない筈だ」...
──しかし、そんなことばかり言ってられないのではないでしょうか?
そして、勇気をもって物事を直視し認めてさえ、私達の心の揺れは収まりません。
「これが本当なのだったら、教会はどういうことになっちゃうんだろうか?」
「これが本当だとしても、これを世間に向けて暴露することは善い賢明なことだろうか? これによって世間の目にカトリック教会というものがどのように映り、未信者や求道者や年若いカトリック信者達の心にもどのような影響を与えるだろうか?」
確かにそうかも知れません。
しかしまた確かなのは、私達成人のカトリック信者は、願わくは皆、これを自分の内では知っておかなければならないということだろうと思います。何故ならば、真面目に言いますが、これはいわば「教会内犯罪」だからです。「詐欺」です。
***
以下、この件と関係あるような、ないような
左: アントニオ・ソッチ氏の前で卑怯な逃げ方をする国務省長官タルシジオ・ベルトーネ枢機卿参照とシスター・ルチア2
(注: 参照先のみこころネットさんが文字化けする時にはブラウザのテキストエンコーディングで Shift JIS を選択)
彼はこの件の真相を知っているのではないか。
私がヴァチカン国務省長官、タルシジオ・ベルトーネ枢機卿である。
 
私は愛する皆さんのためにファチマの正しい解説書を書きました。題名は『ファチマの最後の預言』と言います。どうぞ読んで下さい。因みに、ファチマは幸いにして既に「過去の一部」であります。
祝福を与えるのは楽しいなぁ、フッハッハッハ。
オシャベリしながらだって全然OKだよねぇ。
お叱りを頂きました
このベルトーネ枢機卿の写真に付した私の言葉について、掲示板にて次のようなご批判を頂きました。
9/19の日記の最後のほうに、タルシジオ・ベルトーネ枢機卿の写真と、まるで彼自身の言葉であるかのようなセリフが載っていますが、それを見て、善に反するものを、私は感じています。
秘跡を執り行う権能を持つ司教あるいは司祭たちを、半ばふざけた冗談の対象にするようなことは、カトリックの伝統的信仰とは相容れないものです。
ですから、この点に関して、心を痛めています。
私は、次のように感じました。
第一には、「その通りだな」と思いました。
私も書きながら思っていました、「これは感じ悪いよな。おちょくってるよな」と。確かに、このような私の心の姿勢、たたずまいは、「善に反している」と言えば反しているかも知れません。
第二には、「ナイーブだな」と思いました。
私の書き方が若干「感じ悪い」ものだとしても、読者は、ある程度世間を知った大人であれば、これらの「まるで彼自身の言葉であるかのようなセリフ」が実のところ彼の言葉ではなく私(ヨゼフ・ジェンマ)の言葉であることを容易に見て取ることができると思います。
第三には、「お人好しだな」と思いました。(口が悪くてすみません)
何故ならば、彼、タルシジオ・ベルトーネ枢機卿が「ファチマは過去の一部である」とする2000年の教理省の『ファティマ 第三の秘密』に名を連ねている人であることは確かだからです。
その言葉を正確に引用すれば、
ファティマの「秘密」の第三部にかかわると思われるいろいろな出来事は、もはや過去のことに思えるとしても
中央協議会版  p.32
云々というもので、その直接の話者は当時の国務長官アンジェロ・ソダーノ枢機卿です。そして当時の教理省長官であるヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿もこの言葉を受けた上でご自分の話を進めています(同 p.55)。
そして、彼、ベルトーネ枢機卿は、私がこのページでリンクさせて頂いた場所で批判されているように、私の目にとってはかなり “卑怯” に映る人物であり、また同じファチマ・クルセイダーでたくさん書かれているように、間違いなく「ファチマの地位を低下させよう」とする路線の上にいる人達の中の一人なのです。
同じ『ファティマ 第三の秘密』の中で、彼はこう書いています。
シスター・ルチアは、荘厳で普遍的なこの奉献の祈りが、彼女から見ても聖母マリアの望みにかなうものであることを認めました。「はい。1984年3月25日は、聖母が望まれたように行われました」(1989年11月8日付の手紙)。したがって、これ以外にどのような議論や要求にも根拠がありません。
同  p.12
(しかし、根拠は「大有り」なのです。まったく明らかに。この辺のことは関しては「ほとんどファチマ・クルセイダーだけが頼りである」と言っていいと思います。聖ピオ十世会も書いてはいます。しかし聖ピオ十世会は「聖伝」の “全て” の護り手であって、やはりファチマという一分野に関してはファチマ・クルセイダーが第一等でしょう。)
だから、私が彼の写真に付けた複数のセリフの内、「因みに、ファチマは幸いにして既に『過去の一部』であります」に関しては、「まるで彼自身の言葉であるかのようなセリフ」ではなく、事実、実質、彼のセリフです。
以上の故に、私の中には彼に対する一定の反感があります。そして今回、私はその反感をかなり人間的に、世俗にありがちな形で表現してしまいました。少し反省します。私は、「自分は教皇様に関しても今回したような “おちょくった表現” ができるであろうか?」と自問する時、「いや、決して出来ない」と答えざるを得ません。それも事実です。認めます。少し反省します。
でも同時に、「どうしてカトリックの信者さん達はこの種のことに『心を痛める』などと実に純白の少年みたいな “ナイーブ” なことを言うのに、ほとんど聖書的なほどの規模と重要性を持つファチマの地位が下げられていることに関して腹立たないのだろう」とも私は思います。
「祝福を与えるのは楽しいなぁ、フッハッハッハ。オシャベリしながらだって全然OKだよねぇ」という言葉も、私がこの写真からベルトーネ枢機卿の心の姿勢について確信するところのものです。彼の前の男性は神妙に頭を下げていますが、ベルトーネ枢機卿はおそらく横に立っている黒い服を着た男性に気を取られています。そうでなかったとしても、とにかくこの笑顔です。私は、これは祝福を与える時の顔ではあり得ないと思います。
まとめ
概して、「そんなにいつも純白の少年みたいじゃないといけないの?」と思います。私はいつも、カトリックの人達はあまりに純白を目指す人が多くて... しかし、ただ純白なだけでは、悪人達に「ケツの毛まで抜かれて」しまうぞ、と思っています。
しかし、今の下品なセリフのことと合わせて、少し反省します。
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