2009.07.18

菊地司教様は聖ヴィアンネの何に感心なさっているのか

新潟の菊地功司教様のブログ「司教の日記」の二年前の記事
2007年10月 2日 (火)
長岡にて聖フランシスコのお祝い
先週の福岡では、久しぶりにアルスの司祭聖ヴィアンネの聖人伝を耳にする機会に恵まれましたが、ヴィアンネの生涯はそれはそれは常人が決して耐えることの出来ないようなすさまじいものでした。寝るひまも惜しんで告解を聞き、訪れる人の相談に乗り、祈り、ミサを捧げ、苦行も忘れない。自らの人生は決して自分のためにあるのではなく、すべて誰かの役に立つために捧げるという、究極的な福音の精神に基づいた生き方です。アシジの聖フランシスコも同様に、福音に基づいて生きようとした究極の生き方をしたのだと思います。勿論私たちは聖人と同じような生き方が簡単にできるはずもありませんが、しかしその精神には多少なりとも与りたいと思います。イエス・キリストに従う人生は徹底的な自己犠牲を求めるのではないでしょうか。徹底的に福音的価値観に生きることを求めるのではないでしょうか。そしてそうすることが出来ない自分の弱さに直面するとき、素直に神に助けを求める謙遜さが必要なのではないでしょうか。徹底的に福音に生きようとすることもなく、それが出来ない自分の弱さを認めて謙遜になることもなく、ごくごく表面的な事柄に囚われて互いに口汚くののしりあう人間の性には、救いは見いだし得ません。自分は神の前に一体何ものであるかを神にどう申し開きをするつもりなのか、考えてみることも、時には必要でしょう。
私は思います。
確かに、聖ヴィアンネが、「常人が決して耐えることの出来ないようなすさまじい」在り方で、「寝るひまも惜しんで」、「自らの人生は決して自分のためにあるのではなく、すべて誰かの役に立つために捧げる」という姿勢でもって生きたのは、<凄いこと> です。
しかし私は、私達は彼の優秀さをそこに見るべきではない、と思います。
彼の優秀さは、そのような活動の外観以前のところにあると思います。
私の考えでは、それは例えば、彼が「告解の秘跡とは何であるかを知っていた」というところにあります。単に字義上のことではありません。それが信者達の「救霊」にとってどれほどのものであるかを知っていた、というところにあります。
それが彼の優秀さです。「霊的認識」の優秀さです。
「寝るひまも惜しんでそれをした」というのは、むしろ外観です。
ですから私は、司教様がこの優れた主任司祭のことに注目なさったことを喜びましたが、途中から、司教様がこの司祭の何に感嘆しておられるのかについて、心もとなくなりました。司教様は、せっかく真のカトリック霊性の大家に着目なさったのに、本当の意味では彼の偉さをお分かりでないように思われます。(生意気な言い方ですが。)
司教様はおっしゃいます、
「自らの人生は決して自分のためにあるのではなく、すべて誰かの役に立つために捧げるという、究極的な福音の精神」と。
しかし司教様、カトリックの信仰とは第一に「霊的」なものであって、「超自然的」なものであって、「精神的」であるのは二番目です。
それは人間の構造に対応しています。
人間は第一に「霊(魂)」で、第二に「精神」だからです。
司教様は「その精神には多少なりとも与りたい」ではなく「その霊性には多少なりとも与りたい」とおっしゃるべきなのです。
その「霊的認識」に、「告解とは何であるのか」の認識に、「ミサ聖祭とは何であるか」の認識に、それらの字義を超えた認識に、超自然的な認識に、与りたいとおっしゃるべきなのです。
再び生意気な言い方をすれば、今の司教様では、どんなに「究極的な福音の精神に徹底的に生きたい」とおっしゃっても、それは「精神的」な話です。司教様の「福音に基づいて生きたい」という御表明の中には、例えば「告解の秘跡の執行」は入っていません
いえ、入っています。しかしそれは飽くまで one of them としてです。決して「中心的」なものとしてではありません。(それが問題です)
司教様にとっては告解の秘跡の執行も確かに「福音的なものの中の一つ」であるのです。しかし聖ヴィアンネの場合、彼も告解の秘跡の執行だけをしていたのではなかったとしても、それは彼の聖務にとって極めて「中心的」なものでした。「ど真ん中」にあるものでした。
ピエトレルチナの聖ピオ神父様も同じです。これらの司祭達の偉さはそこにあります。教会の仕事は「救霊」であること、「霊的」「超自然的」なものであることを分かっていたことです。
聖アンドリュー・アヴェリーノも同じです。参照
しかし司教様は、彼らが「寝るひまも惜しんで、己を投げ打って、他者に奉仕した」ことには感心なさり、それに「福音的」という言葉を当ててみたりなさるのですが、彼らの活動内容が主として「告解の秘跡」を授けることであったことに関しては(勿論「ミサ」もですが)、むしろ <無反応> であられるのです。(それが問題です)
現代の司牧者達の問題を最も分かり易く言えば、こうです。
「自らの人生は決して自分のためにあるのではなく、すべて誰かの役に立つために捧げるという」姿勢でもって何事かを為せば、他者に奉仕すれば、<ホームレスの人達に対する炊き出し> も <告解の秘跡の執行> も等しく「福音的」なのです!
「ホームレスの人達に対する炊き出しが無価値だと言うのですか、必要ないと言うのですか」などと、馬鹿な質問をしないで下さい。その活動には価値があります。その活動は必要です。しかしそれでも <告解の秘跡> とは何か違うでしょう。<ミサ聖祭> とは何処か違うでしょう。同じですか?
現代の司祭達はここを「明らか」にしたがりません。「区分け」したがりません。(それが問題です)
以上、ですから、「彼の精神には多少なりとも与りたい」とおっしゃり、「徹底的に福音的価値観に生きたい」とおっしゃる司教様のお言葉から、私は聖ヴィアンネに近いものを予感することができません。
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