ジェファーツ・ショリ --
イエズスは「神聖さへの私達の乗り物」です
2006年11月11日 By Frank Lockwood
近いうちにルイビル市の南部バプテスト神学校で話すことになっている聖公会の新しいリーダーを探そうとしないで下さい。キャサリン・ジェファーツ・ショリのキリスト教に関する最近の発言は、学校の最高顧問として相応しいものではありません。
その神学校の校長であるアルバート・モーラーは、キリストは「道であり、真理であり、命」であると言い、「誰もイエズスを通ってでなければ父なる神に至ることはない」と言っています。
しかし、タイム誌や他の情報媒体の中で、ジェファーツ・ショリは、「キリストへの信仰は全能の神に至ることのできる多くの経路のうちの一つでしかない」といったような口振りです。
「キリスト教信仰の伝統を実践する私達は、彼(イエズス)のことを、私達が神聖さに至るための乗り物として理解しています」とジェファーツ・ショリはタイム誌に語っています。「しかし、私達にとって『神は他の方法では行動することがおできにならない』と仮定することは、神というものをあまりに小さな箱の中に押し込めてしまうことのように私には思われます。」
しかし、モーラーが言っているように、聖公会は200年もの長きにわたって、その信仰箇条の中で、「人が救われるのは、ただイエズス・キリストの御名によってのみである」と宣言しているのです。
ジェファーツ・ショリについて疑問を呈しているのはバプテスト派だけではありません。モーラーによると、最近NPRの記者が「新しい主教は一神教信者ですか?」と尋ねたというのです。(おそらくもっと良い質問は、「ジェファーツ・ショリはユニバーサリスト(全ての人が救われると信ずる者)ですか?」でしょう。)
ジェファーツ・ショリは「イエズスへの信仰は必須ではない」と示唆する聖公会の初めてのリーダーではありません。
かつて私は、フランク・グリスウォルド(ジェファーツ・ショリの前任者)に、「何故、人は、他の多くの宗教がある時に、キリスト教を選ばなければならないのですか?」と訊きました。すると、グリスウォルドは次のように答えたのです。2005年の夏のことでした。
「キリスト教信仰に育てられ、形作られ、イエズスという人を私の個の自覚と私の周囲の世界にとって基礎的なものと見なす私は、キリストから受け取る喜びと命の深い感覚を、より広い範囲に利用可能なものとすることができればと思います。けれども、神は教会に制限されません。私は、アブラハムに三人の子供がいることを興味深く思います。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。そしてこのことは、他の宗教の伝統の中に自らを存在させる神の能力について、何を語っているでしょうか? 私は、キリスト教が私のためにしてくれていることの一つは、私がそれを通して他の宗教を見ることができるレンズ、そして私がそれを通して神がどこでお働きになっているかを見出すことのできるレンズを与えてくれていることだと思います。仏教の伝統の中に見られる『慈悲』は、私達の信仰で言う『愛』からそんなに遠く隔たったものではありません。もちろんユダヤ教とイスラム教も、その最良の部分で、それと同じ中心的価値観を持っています。そして、それら中心的価値観の全てが、一つの神聖な現実の反映なのです。」