2009.09.15

ショリ総裁主教「世界全体が神に繋がっている」

海外のたくさんのページで、ショリ総裁主教の発言が問題視されている。
以下、例によって「おおよそ訳」。文中の各種強調は管理人。
総裁主教:「世界全体が神に繋がっている」
2009年8月7日 By Bryan Owen
キャサリン・ジェファーツ・ショリ(聖公会の総裁主教)は最近、「イエズスを通ってというのが神に至る唯一の道でしょうか?」と問われ、次のように答えた。
クリスチャン達は──私もその一人ですが──イエズスは世界全体のためにご死去されたと信じています。そうですよね?
他方、ユダヤ人達はイエズスのことを彼らの救い主であると認めていません。いずれにせよ、ほとんどのユダヤ人がそうです。しかし、私が聖書を読むところでは、神は明らかにユダヤ人達に、イエズスの生涯、死、そして復活によっても反古にされることのない約束をしています。神はまた、自分達のことをムスリムと呼ぶ人々の祖先であるイシュマエルとハガルに対しても、約束をなさいました。それらの約束は、そのどちらも、私達が神がそれらを反故になさったと信じていない約束です。ですから明らかに、アブラハムを起源とするキリスト教でない宗教も、意識的にはイエズスを通ることなしに、父なる神との繋がりを持って来たのです。
私はまた、その他の宗教から出た人々のことをも見回します。すると、それらからマハトマ・ガンジー、ダライ・ラマ … あるいはティク・ナット・ハンのような偉大な模範が幾人か出ていることに気づきます。彼らは私達に、霊的な実りのように見えるものを見せ、彼らの生き方を通して、私達の目に神々しい振る舞いと映るようなものを見せています。もし私が、そのような証拠があるにもかかわらず、彼らが神と何らかの繋がりを持っているということを否定するなら、私は聖霊に逆らう罪にかなり近いことをしているのだと思います。
私は、神がどのようにそのようなことをしていらっしゃるのか知りません。そのやり方を考え出すのは私の仕事ではなく、神のお仕事です。私の仕事は、できるだけ良いクリスチャンでいること、善き知らせとイエズスについての私の体験を人々と分かち合うこと、そしてそれを世界に示す生き方をすることです。全ての時の終りに誰が王国に入るのかは神に考えて頂くべきことです。
私は、世界の全体が神に繋がっていると信じています。そして、そのメカニズムについてはただあまり心配していません。そして、そうです、このことは一部のクリスチャン達をキチガイにさせます(聴衆に笑いが起こる)。ええ、それはそうします。何故なら、キリスト教のある部分で、私達は救いの問題を一つの行為の問題にしてしまっているからです。つまり、あなたは救われるために、「私は、イエズスを私の神であると、また私の救い主であると認めます」と言わなければなりません。それは救いの問題を一つの行為の問題にしているということです。これは恵みの可能性を否定しています。
ビデオを見て下さい。
私は、彼女の回答には問題があると思います。
(以下、この筆者のプロテスタント神学からの
検討・反論が続くようなので、省略。)
次は少し古い記事です。
ジェファーツ・ショリ --
イエズスは「神聖さへの私達の乗り物」です
2006年11月11日 By Frank Lockwood
近いうちにルイビル市の南部バプテスト神学校で話すことになっている聖公会の新しいリーダーを探そうとしないで下さい。キャサリン・ジェファーツ・ショリのキリスト教に関する最近の発言は、学校の最高顧問として相応しいものではありません。
その神学校の校長であるアルバート・モーラーは、キリストは「道であり、真理であり、命」であると言い、「誰もイエズスを通ってでなければ父なる神に至ることはない」と言っています。
しかし、タイム誌や他の情報媒体の中で、ジェファーツ・ショリは、「キリストへの信仰は全能の神に至ることのできる多くの経路のうちの一つでしかない」といったような口振りです。
「キリスト教信仰の伝統を実践する私達は、彼(イエズス)のことを、私達が神聖さに至るための乗り物として理解しています」とジェファーツ・ショリはタイム誌に語っています。「しかし、私達にとって『神は他の方法では行動することがおできにならない』と仮定することは、神というものをあまりに小さな箱の中に押し込めてしまうことのように私には思われます。
しかし、モーラーが言っているように、聖公会は200年もの長きにわたって、その信仰箇条の中で、「人が救われるのは、ただイエズス・キリストの御名によってのみである」と宣言しているのです。
ジェファーツ・ショリについて疑問を呈しているのはバプテスト派だけではありません。モーラーによると、最近NPRの記者が「新しい主教は一神教信者ですか?」と尋ねたというのです。(おそらくもっと良い質問は、「ジェファーツ・ショリはユニバーサリスト(全ての人が救われると信ずる者)ですか?」でしょう。)
ジェファーツ・ショリは「イエズスへの信仰は必須ではない」と示唆する聖公会の初めてのリーダーではありません。
かつて私は、フランク・グリスウォルド(ジェファーツ・ショリの前任者)に、「何故、人は、他の多くの宗教がある時に、キリスト教を選ばなければならないのですか?」と訊きました。すると、グリスウォルドは次のように答えたのです。2005年の夏のことでした。
「キリスト教信仰に育てられ、形作られ、イエズスという人を私の個の自覚と私の周囲の世界にとって基礎的なものと見なす私は、キリストから受け取る喜びと命の深い感覚を、より広い範囲に利用可能なものとすることができればと思います。けれども、神は教会に制限されません。私は、アブラハムに三人の子供がいることを興味深く思います。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。そしてこのことは、他の宗教の伝統の中に自らを存在させる神の能力について、何を語っているでしょうか? 私は、キリスト教が私のためにしてくれていることの一つは、私がそれを通して他の宗教を見ることができるレンズ、そして私がそれを通して神がどこでお働きになっているかを見出すことのできるレンズを与えてくれていることだと思います。仏教の伝統の中に見られる『慈悲』は、私達の信仰で言う『愛』からそんなに遠く隔たったものではありません。もちろんユダヤ教とイスラム教も、その最良の部分で、それと同じ中心的価値観を持っています。そして、それら中心的価値観の全てが、一つの神聖な現実の反映なのです。」
これらを読んで私が思うこと。
「これがキリスト教指導者の言うことか?」
「しかし、このような考えを、第二バチカン公会議の神学は決して力強く排斥できないのだ。排斥どころか、牽制すらできないのだ。」
というのは、第二バチカン公会議の神学は、ショリ総裁主教やフランク・グリスウォルド前総裁主教のこのような文脈と、実はかなり親和性があるからだ。誰かが「神は教会に制限されない」と言おうが、「他の宗教の伝統の中に自らを存在させる神の能力」という表現を採ろうが、第二バチカン公会議以降の教会には、それに文句を言う筋合いはない。
「教会の外に救いなし」──しかし本当は、カトリック神学は、第二バチカン公会議以前にだって、「意識的にはイエズスを通ることなしに救われる人々」のことを、その可能性を排除していない。そして確かに、実際、現実においてもその可能性はあるだろう。だから、本当は、状況はちょっと難しい。
けれど確かなのは、「強調点」の置き方の違いによって、特に「宣教」に関する意識と態度が、それとこれとではガラッと変わってくるということだ。
一方では「あくまで人々のために、そして天主のために、布教・宣教しなければならない」という姿勢が生まれ、他方では「他宗教の人もその善意によってその宗教の中に居ながらにして救われ得、また無宗教の人ですらその善意によって救われる道が完全には絶たれていないのだから、布教・宣教・改宗は文字通りには『必須』のものではない」というような姿勢が生まれる。それどころか後者は更に「従来の布教・宣教・改宗というものは往々にして人々の中に不和を生みがちなものであるから、通常、考えられるべきものではない」などといったトンデモナイ心情・雰囲気を作る方向へと進んで行く。
それはもちろん、本当は「進んで行く」のではなく、誰かが「進めている」のである。ある種の者らがこの世に「宗教問題が大きく絡んだ戦争・紛争・テロリズム」を故意に作り上げ(少なくともその “危機感” を煽り)、イノセントでナイーブな人々の心情を利用しながら、世界のあらゆる宗教を「自由・平等・博愛」のようなものだけを拝むものに変えようとしている。「ある種の者ら」とは、言わずと知れた共産主義、イルミナティ、フリーメイソン、それらに連なるオカルト団体、国連などである。これは常識になっていなければならない。しかし現実は、現在カトリック聖職者の誰もかれもが、もちろん信者も、この方向に乗り、乗せられている。
そして、やがてこんなことに?
"あらゆる宗教が神に通ず"
第二バチカン公会議の神学は、そして「エキュメニズム」は、どこまで力強くこの図に反対できるのか?
私達のボキャブラリーには「実質的」という言葉がある。
「実質的」に、今のエキュメニズムは、また第二バチカン公会議の神学(精神)は、上の図とどれほど違っているのか?
わたしを通ってでなければ、だれも父のもとに行くことはできない。
ヨハネ 14 : 6
牛とろばに同じ一つの軛をかけてはならないように、信仰のない人たちと進退をともにしてはなりません。「義」と「不法」とに、いったいどんな共通したところがあるのでしょうか。「光」と「闇」とに、どんな結びつきがあるのでしょうか。キリストとベリアルとに、どんな協調点があるのでしょうか。信仰がある人と信仰がない人とに、どんなかかわり合いがあるのでしょうか。神の神殿と偶像とに、どんな一致があるのでしょうか。わたしたちは生きておられる神の神殿なのです。
二コリント 6 : 14-16
エキュメニズムに賛同する現代のカトリック聖職者の方々は、「実質的」に、主ご自身の言葉を含むこのような聖書の言葉を、ヒューマニズムの故に「迫害」しているのではないか? 否、疑問形で言う必要はないだろう。
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