2009.09.18

碑文谷教会は他宗教の儀式のために祭壇周りを貸す

「祭壇周り」、ほんの少し昔は「内陣」と言われた場所である。
聖なる場所である。
それをカトリック教会が自ら他宗教(異教)に貸している。
ほんとうにガックリ来る。
以下、2007年10月のカトリック碑文谷教会における情景である。
エキュメニズム(カトリック碑文谷教会)
立正佼成会の青年達が内陣にあがり、彼らの儀式──「光の奉献」──を行なう。
写真の右端にレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が見えるが、これはこの教会の祭壇の前面である。彼らは儀式でこの祭壇さえ使ったのではないか。
 
エキュメニズム(カトリック碑文谷教会)
仏教の僧侶が同じく内陣にあがり、「般若心経」を唱える。うしろにいるのは神道の神職。
その他、天理教による雅楽奏上と「陽気手おどり」、神道神職による「修祓式(お祓いの儀式)」などが行なわれたという。カトリックの聖域で。
いったい、カトリックと般若心経とにどんな関係があるだろうか!
彼らに罪はない。罪があるのはこれを許したカトリック聖職者である。
伝統を感じさせる立派な御聖堂を持ちながら、今直ぐ跪いての御聖体拝領に回帰できる聖体拝領台まで持ちながら(冒頭の写真参照)、することと言えばこんなことか!
主任司祭 小坂正一郎神父
フランコ・ソットコルノラ神父について書いた先日の日記は、文章がいけなかったと思う。あれでは、読んだ人がこう思うかも知れない。「この書き手は、あり得るだろう『配慮の行き届いたエキュメニズム行事』と、アシジのような『一部配慮の不足したエキュメニズム行事』を一緒くたにしている。おそらくは怒りにより、怒りに目が眩んだあまり、アシジの聖職者達が行なった無神経行為、『ありとあらゆる十字架を取り払らい、固定されて取り払われない十字架には布を被せて隠す』といった “行き過ぎた行為” とそうでないものとの区別がつかなくなったのだろう」と。
もう少しはっきり書くべきだった。「アシジの出来事とフランコ・ソットコルノラ神父の考え方は一直線に繋がっている。決して別のものではないのだ」と。
「芯」が同じだからだ。両者とも、カトリックに固有なもの特有なものは「表わさないことが望ましい」ということだからだ。
しかし、それはカトリック信者として異常な考え方であり、ハッキリと 「対神的に悪」 であるものである。誰かがイエズスの磔刑像が取り外されるのを見て傷ついたとか、そのようなこと以前の問題──「思想の悪」なのである。
カトリック信者にとっては、「主イエズスの御事を宣べ伝えよ」、この言葉と共にあることが信者であるための最も前提的な義務である(たとえ行動として実際にはなかなかできなくても)。最も前提的な義務を抑圧・抑制しつつ進む「善」などというものは存在しない。それは必ず「破壊思想」であり「悪」である。比叡山サミットであれ。
(世俗の善悪を語っているのではない。)
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