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2009.09.19

平和のために教義を隠す

── 教義を一つ不問に付すも二つ不問に付すも同じである ──
Q. ここで何が起こっているか?
A. 「カトリック教義の一部を不問に付す動き」 が起こっている。
この事はあまりに明らかだ。この回答(A)は正しい。何故なら岡田大司教様の横に立っているのは日本聖公会首座主教の植松誠氏であるから。
岡田大司教様はカトリック教義を否定せず、しかしその一部を「不問に付して」いるからこそ、このような事がおできになるのである。聖公会はカトリック教皇の首位権(地上における唯一の「ペトロの岩」である事、ペトロの権威の唯一の継承者である事)を認めていない。カトリック教会が唯一の「使徒継承の教会」であることを認めていない。「認めていない」ばかりでなく、もし誰かから問われれば、彼はこれらを「否定する」だろう。「ええ、私はそれらを信じません」と言うだろう。言わなければ、彼は不正直者である。そして聖公会は、その「もともとの発生」においては、カトリック教皇の首位権を拒否しながらカトリックの婚姻に関する教義をも踏み倒して出て行ったところの宗教である(英国国教会のことだが)。(本当言えば、私はその辺の歴史経過について詳しくない。けれど、いずれにせよ、真実はそれと左程遠からぬところにあるだろう)
そのような重大な事実を「不問に付す」ことができるのならば、同性愛肯定論者の聖公会指導者を聖マリア大聖堂に入れることが何だろう、聖マリア大聖堂を聖公会に丸ごと貸し出すことが何だろう、ということにならないか。私達が本当によく考えてみなければならないのは、ここである。
すなわち、カトリック聖職者は今や、時に「平和のためにイエズスを隠す」ことを辞さないように、辞さないどころか積極的に良しとするように、「平和のために教義を隠す(不問に付す)」ということも積極的に良しとするのではないだろうか。否、これは既に疑問形で言われるべきことではない。
現代のエキュメニズムというものがどのような精神で行なわれているか、それを端的に示しているものがあります。上の写真は2008年2月1日のカトリックと聖公会とによる合同礼拝のものですが(参照1参照2)それについての説明の中に次のようにあります。(画像挿入は管理人)
記念説教を行なったイエズス会の高柳俊一神父はこの翻訳のためにおよそ3年の月日をかけたことや作業をとおして互いを学び、自分の伝統を再発見しつつ、古代教会にまでさかのぼる共通のことについて理解を深めることができたと話し、最後はベネディクト16世による神の母聖マリアへの祈りを唱え、自らを神の招きへと捧げた聖母マリアにイエスを知り、イエスを愛することを教えてくださるよう導きを求めた。
高柳俊一神父
イエズス会
上智大学名誉教授
「翻訳」とは、聖公会─ローマ・カトリック教会国際委員会の合意声明『マリア─キリストにおける恵みと希望』の日本語への翻訳のことです。
この中には、私が思うに、良いことと良くないことが同居しています。
良いことというのは、もちろん、上で青文字で示した部分です。カトリック信者なら、たとえ最近のエキュメニズムには違和感を持つ保守的な人でも、これを読んで嬉しく思い、感謝したいような気持ちにさえなるでしょう。
けれど、この時代の私達が特に気を留めなければならないのが、上で赤文字で示した部分です。これは現在の全てのエキュメニズム運動の底に流れている基本理念のようなものを表わしています。「対話」し、「互いを学び」、「共通のことについて理解を深める」こと───
簡単に言えば、「共通のものを大事にし、共通でないものは不問に付そう」というのが、今のエキュメニズム運動ではないでしょうか。「平和」の構築のために、宗教間の「和合」のためにと。
だから、こういうことができるのであり、
こういうことさえできるのであり参照
更に恐らくこういうことさえできるのです。
ちょっと不謹慎ですね(笑) しかし、要するにこういうことです。
これらには「程度の差」があるように見えます。「一番上の合同礼拝は、まあ分かるが、しかし後の二つは・・・」等。──確かにそれはあります。けれど、実はこれら全てが、「共通のものを大事にして、共通でないものは別の目的──当面の目的、“差し迫った” 目的、“緊急の” 目的──のために不問に付して良い」という同じ一つの基本理念(枠組み)によって通過してしまうことが可能なのです。
「平和」は人類にとって急を要する問題であり、このようなカトリックと聖公会の合同も何らかの形でそれに大きく関わることらしいのです。「教義の違い」は「平和」を作るためにはあまり目立たぬところに置いておかなければならないほど、ある意味人類にとって「狂暴な牙」であるらしいのです。しかし、これも一種の人類に対する「子供扱い」です。彼らは常に人間を子供扱いしながら、神聖なものを破壊して行きます。
駐日教皇大使(アルベルト・ボッターリ・デ・カステッロ大司教)も、上のカトリックと聖公会の合同礼拝の場で祝辞をお読みになっています。ですから、折りある毎にこの大司教様のことを頼りにする保守的なカトリック教徒の人達にとっては意外であり更にショックなことでさえあるかも知れないのですが、彼もまた、今回のショリ総裁主教の聖マリア大聖堂入りに反対しないのです。少なくとも確固とした反対、「大反対」はできないのです。(彼は信者からの連絡によってショリ総裁主教が入ることを知っています
何故「できない」のかというと、既に言ったように、現在のエキュメニズムの底に「共通のものを大事にして共通でないものは不問に付しながら友愛を図る」という考え方が基本的なものとして流れているからです。
だから、現在の教会自身のこの考え方をどうにかしない限り、「同性愛支持」ということで保守的なカトリック信者の目に非常に大きな特別なものに映っているショリ総裁主教のことだって、それに反対すべき確固とした根拠は立たないということになります。
こういうのは原理的な話です。「原理的」などというと一般の人の目にはただ「理屈っぽい」とか「教条主義的で柔軟性がない」とかいうことを連想させるのかも知れません。しかしそれは違います。事実、教会という世界は全てにおいてではないにしろかなりの部分、そのようなもの(理屈)によって支えられ動かされています。神学などを云々する思想的な男達によって運営されています。だから、彼らのそのような間違った「テツガク」を変えない限り、教会は変わらないということになります。少なくとも大きくは変わりません。信者のあれこれの抵抗に遭ってゴタゴタしながら少し改めるぐらいのことはあっても。
現在の教会はそのような基本的な考え方によって、「ショリ総裁主教のことだってそう簡単には排斥できない」という「仕組み」になっていると言っても過言ではないぐらいのものです。私達がただ私達の “感覚” によって(感覚だけではないけれども)、その時その時で「聖公会との合同礼拝はともかく、同性愛支持の他教派の指導者を入れるなんて、いくら何でも.. 」などと言ってみたって、ちょっと埒が開かないところがあるのです。
このことは「だから反対したって仕方がない。それは無駄である」ということを意味しません。反対はすべきです。(私だって、もし関東に住んでいたら、23日、聖マリア大聖堂の前でプラカードを掲げたでしょう)
でも、局所的にというか局部的にというか、今日はこの問題、明日はあの問題と、一つひとつ個別の問題に目をつけて反対して行っても、根本が改められない限り早期の解決は覚束ないということです。
多くの人は「思想の悪」などと言われてもピンと来ないのかも知れませんが、つまりはそういうことです。「共通のものを大事にして、共通でないものを隠しながら──ある時には “平和のためにイエズスを隠し” ながら、別の時には “平和のために教義を隠し” ながら──友愛を図るのは良いことである」──これが思想の悪破壊思想です。
暗くなった東京カテドラル聖マリア大聖堂
来たる23日、奇跡でも起こらない限り、聖マリア大聖堂はまた一つ暗くなるでしょう。
猫パンチ
しかし、もちろんこれからの私達の頑張りによって、それを再び明るくしなければならない。聖マリア大聖堂ばかりでなく、カトリック界全体を。
アヴェ・マリア!
そして、「最後まで言う」という私の信条に従えば、やはりこれです。
以前も言ったことを再び言いますが、私は「前教皇様は間違われた」(参照)と確信していますが、それは私が前教皇様のことを感情でもって「憎んでいる」とか「軽蔑している」とかいうことを意味しません。感情においては尊敬申し上げています。ただ「理性」(判断)においては少し別である、ということです。
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