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2010.01.06

高松司教座聖堂でのバンドミサ

2009年12月6日・桜町教会青年バンドデビユー
この子達を責めることはできないけれども。
周りの大人達の中で「不敬」という言葉は死んでいる。
死んで久しい
修道女も笑ってる。
溝部司教様も・・・笑ってる?
(ここは司教座聖堂である)
御聖櫃の位置
当然のこととして言おう。
ここの管理人が言っても「またか」と思われるだけだけれども(笑)、私の中ではただもう「真実は真実だ」ということなので、ここでも単純に言うしかない。──「聖座自体が間違ってる」
つまり、糸永司教様が引用なさっている当時の総則の言葉(現在の総則ではこの部分は無くなったようだけれども)、「聖体を保存する場所は、信者の個人的な礼拝と祈りにふさわしい小聖堂の中に設置されることが切に勧められる」、これは、糸永司教様は疑うことなく受け容れていらっしゃったようですが、異常な、驚くべき文言です。つまり、聖体礼拝は個人的な礼拝にふさわしいのであって、共同体的な礼拝ではむしろ共同体が重要です、と言わんばかりの言葉です。
おそらく、このようなことを言われると、聖職者の方々は、「いや、確かにある意味でそうかも知れないが、しかし私達だって、また信者の人達だって、別に御聖体を粗末にしているんじゃないんだから・・・」と言いたくなるのかも知れません。しかし、それこそが、失礼ながら盲目であるところです。何故なら、何度も言うようですが、戦いは、その全てが <重点(強調点)> という小さな一点の上に乗っているものだからです。
聖座が「悪い」というのじゃない。(語感として。)
ただ聖座は、煙に巻かれて「迷って」いる。
はっきりしてる。
どうしてかって?
どうしてこんなにはっきりしたことで迷うことができるのかって?
どうしてここの管理人みたいなボケナスでも簡単に分かることを聖座は分からないのかって?
そりゃもう「神秘」と言うしかない!
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