2010.01.18

悪魔の人質(Hostage to the Devil)

マラキ・マーティン神父が Hostage to the Devil という本を著していたのは知っていたましたが、邦訳も出版されていたんですね。著者名が「マラカイ・マーチン」となっているためもあって、今まで気づきませんでした。
この本は現在絶版で、且つネット上の古書店サイトでも一つもヒットしません。図書館で借りて読みました。
書き方が文学的であって、マラキ・マーティン神父の解釈が混入している部分もきっとあるだろうという気がしますが、しかしおよそ事の真実性は保たれているだろうと私は信じます。
が、とにかく酷い話ばかりです。「他界からの警告」と違い、これは私のような物好き以外は読む必要はないと思います(笑)
でも、印象的だったものを少しだけ紹介します。
「事例2」の主人公は若い司祭です。テイヤール・ド・シャルダンの思想の影響を受け、イエズスを人間の自然的な発展の最終形態《オメガ・ポイント》であるとか何とか言っちゃって、もちろん憑霊の要因はそれだけではなく、きっと彼の体質(?)なども大いに関係しているのでしょうが、徐々に、そしてやがて完全に、邪霊に憑依されてしまいます。次は、彼がミサで決定的に冒涜を働く場面。
一九六三年にイーヴズの状態は危機を迎えた。それはミサをあげる時に端的に現われた。ミサをあげるのに手間どるようになったのである。侍者や会衆もそのことに気づいた。きわめて奇妙なことには、余計な時間がかかるのはミサのごく一部に限られていた。それは《聖別》に入る直前の、最も厳粛な部分であった。司祭が掌を下に、指をそろえて聖杯とパンに両手をかざす。ミサの鐘の音のほかには物音ひとつ聞こえない瞬間が訪れる。この儀式にあたって、イーヴズは両手をさしのべたまま、異様に長い時間をかけるようになった。最初は三分ほどであったが、やがて十分となり、十五分となり、一度は三十分もの息苦しい時間が経過した。その間ずっと会衆や参列している同僚たちはイーヴズを見守りながら待ち続けたのである。それからさらに《聖別》の言葉を告げるのにも異様に長い時間がかかった。ふつうの進行ぐあいならば、これらの儀式には三分ないし五分ほどしかかからないところなのである。
同僚たちは好意的に解釈した。「神秘的な」瞬間を経験しているのだろうと考えるものもいれば、「宗教的なためらい」に陥っているのだろうと推測するものもいた。つまり、ミサの仕種や言葉を規定した公式典礼をあまりにも杓子定規に考えすぎているのだろうと思ったのである。司祭になりたてのころにはよくあることであった。規則逸脱に罪悪感を覚え、すべての規定を遵守しようと必死になって、何度でも同じ仕種や言葉を繰り返し、あらゆることを正確にこなしているという確証をえたがるのである。
しかしイーヴズは神秘的になっていたわけでもなければ、宗教的ためらいに金縛りになっていたわけでもなかった。秘かに拷問を受けていたのである。ある日、聖杯とパンに両手をさしのべた時から、《聖別》が終るまでの間に、「リモート・コントロール」の強さと「メッセージ」が変化し、拷問が始まったのであった。
「私は徹頭徹尾戦い抜いたんですが」とイーヴズは回想する。「徹底的に打ち負かされました」
公式に規定されたミサの言葉や、その言葉が表わす概念に代えて、イーヴズは別の概念や言葉を思いついた。変更されたのは常に重要な言葉だけであった。たとえば「救う」とか「救い」という言葉が規定されているところにさしかかると、彼は「勝つ」とか「勝利」という言葉しか考えられず、また口に出せなかった。「救う」とか「救い」といった言葉は、紙きれになぐり書きされて、彼の手の届かない壁に貼られた言葉のように思えたのであった。それに手が届かないことが激しい苦悶の種であり、耐え難いほどの苦痛となった。
同じ事態が他の言葉についても生じ、「愛」は「誇り」となり、「死んだ」や「死」は「死に帰郷した」や「無」となり、「犠牲」は「挑発」となり、「罪」は「神話と寓話」になり、「パン」と「ワイン」は「欲望」と「快楽」になるというぐあいであった。
その上、儀式上の必要で十字を切らなければならない時にも苦痛を覚えた。そうした時、イーヴズの手は、右手の人差指しか動かず、しかも下から上へ垂直の線を描くことしかできなかった。
その間、イーヴズは記憶と反射作用に頼って儀式を進めていた。しかし、代用の言葉や概念が湧いてきて、それが表面に出ると、儀式全体の意味や意図がまったく変わってしまうのであった。彼自身もそのことに気づき、意志と精神の力をふりしぼって儀式の維持につとめた。しかし、毎回、結果は同じであった。彼が儀式を維持しようとすると、なにか固い塊が内部の奥深く──肉体や頭脳の中ではなく、意識そのものの中に──広がり始めるように思えた。「悪夢におびえた夜の後で、現実が悪夢そのものであることに気づくようなものでした」 固い塊が広がるにつれて、彼はどうにも降伏するほかにしかたがなくなってくるのであった。
この内面の苦痛が限界に達すると、肉体や心理状態に影響が現われ始めた。耳鳴りがし、体の奇妙な部分が痛み始めた。髪やまつげや足の爪が耐え難いほど痛み始めたのである。そして脳裡には次々とこれまでの生きざまが浮かび、そのどれをとっても自分が滑稽で薄汚く、軽蔑すべき絶望的存在であることを示していた。彼は今にも悲鳴をあげそうになった。もし実際に悲鳴をあげていたならば、彼はこう叫んだところである──「溺れる! 滅びてしまう! 助けてくれ!」
悲鳴はあがらなかった。彼は戦いをやめたのであった。苦痛が消えた。安堵の気分も混じる大いに愉快な気分になった。それまでの苦痛と対照的な気楽さがかえって苦しいほどであった。
ある日、彼が《聖別》の言葉を告げ始めた時、最終の苦悶に見舞われることになった。「これは私の体である。これは私の血である」と告げる彼の声に、「これは私の墓石である。これは私の性感である」という、もうひとつの彼の声が重なり合った。祭壇に身を乗り出して典礼に定めたとおりの言葉を彼が口にした時、純粋な《聖別》の意図はまったく失われていた。彼はくの字型に歪んだ人差指をワインに突っこみ、白い聖餅に垂直な赤い汚点をつけた。
その瞬間、イーヴズはまっすぐ立てなくなった。耳には二種類の異なる音が鳴り響いていた。彼は確かにそれを聞き分けたように思った。ひとつはあざけりの笑い声が次々と谺〔こだま〕を作っている音であった。もうひとつはかすかな、押し殺したような抗議の泣き声あるいは悲鳴で、これはあの憎々しい笑い声の反響の中でしだいに消えていった。
p122〜124
私の印象に残ったのは、最後の、イーヴス(仮名)の耳に「かすかな、押し殺したような抗議の泣き声あるいは悲鳴」が聞こえた、という部分です。霊はちゃんと見ています。
あと、このイーヴスの神学校時代の恩師(デイヴィッド神父・仮名 - 彼もテイヤールの思想に毒されています)の話でこんなのがあります。彼を子供時分から可愛がっていた伯父が、いまわの際に、既に司祭となっている彼にこう言います、「……(私は)彼らのために祈った……私は彼らのために祈った……(彼らは)私を故郷へ連れ戻しにやってくる……(しかし)おまえはしなかった〔=彼らのために祈らなかった〕……坊ず……故郷……おまえはしなかった……故郷……」。
デイヴィッド神父はこう言われて、多少心当たりはあるものの、その意味するところがはっきりとはわかりません。しかし、何年後かのエクソシズムの現場で、彼は悪魔から次のように嘲られます。
彼(エクソシズムの主司式者)はデイヴィッド(補助司祭)に聖水入れと十字架を渡してくれと頼んだ。その時、なんの予告もなしに、悪魔にとり憑かれた男の体が硬直した。
彼は金切り声で冷やかした。「司祭さん、あんたがそいつをやつから受け取るなら、われわれは出て行く必要はないな。やつには敵が多すぎる。われわれは出て行く必要がない! やつは彼らが頼んだ時に助けてやらなかった。われわれは出て行かない! 出て行く必要がない!」 それから、おぞましい耳ざわりな笑い声が人々の耳を聾した。悪魔にとり憑かれた男はデイヴィッドを鋭く指差した。「ハッ、ハァー! 人でなしめ。やつは彼らのために祈らなかったんだ。……希望のもてない神父さんよ! ハッ、ハァー!」
デイヴィッドは度肝を抜かれ、呆然となった。
p106
よく分かりませんが、おそらく、彼は煉獄の霊魂のために祈るべき時に祈らなかった、というようなことではないかと私は思います。
この二例によっても、「あちらの世界からは、地上の人間の一人一人(私達の一人一人)が何をして何をしなかったか、何に励み何を怠ったかが丸見えである」ということが確認できるような気がします。
まあ、当たり前のことですが。しかし怖いことです。でも、裏を返せばこれ故に、私達は励みを覚えることも可能なのだと思います。しっかりと見てくれているのですから。(お知らせ
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