2010.05.12

U2のボノはおそらくサタニストであろう(10)

「彼/彼女はカトリック教徒ではない」
という理由の上に育つ悪い木
今日のこの記事は「」と「バチカンは何をやってんだか」で触れたカトリック信者さん(この一連の記事を書くキッカケを与えてくれた信者さん)に特に反応して書かれます。しかし、ここで検討する事は全カトリック信者によって共有され得ます。彼はこう書いています。
キリスト教徒と言っても彼らはカトリック信者ではありません。あえて分類するとすれば、プロテスタント信者です。ですからまず、彼らを保守的なカトリックの価値観で見ても意味はないですし、またそう言う価値観を彼らに押しつける事も出来ません。
こういうのは非常に “ありがち” な考え方です。一見正しそうに見えます。しかし、そこに「隙」はないでしょうか? ここには、(1)対象それ自身(ここではボノ)の問題、それ自身にとっての問題と、(2)それに対さなければならない私達の問題、私達にとっての私達の姿勢の問題があります。この二つは同じものではありません。私達はこの二つを混同せず、整理しなければならないと思います。
私達は野で真理をやっています
以下は、ボノに関してではなく、私達に関してのことです。
ボノに関してではなく、「カトリック教徒」に関してのことです。
私達の弱点の一つは、つい人や物事を「ジャンル」で分けて考えてしまうことだと思います。
彼は「キリスト教徒」ではないから →
キリスト教的価値観から彼に何かを言ってみても、
彼の上に即時に効果があるものではないだろう。
まして、彼にキリスト教的価値観を「持て」と
“押し付ける” ことはできない。
これはその通りでしょう。
しかし、
彼は「キリスト教徒」ではないから →
キリスト教的価値観から彼に批判の目を向けても仕方がない。
彼はキリスト教徒ではあっても「カトリック」ではないから →
カトリック的価値観から彼に批判の目を向けても仕方がない。
これは大変間違っていると思います。
この二つのグループは別のものです。
一人のカトリック司祭が天主の真理に持ち込む危険と、一人のミュージシャンが天主の真理に持ち込む危険は、「危険である」という点では同じです。もちろん若干の状況的違いはあります。司祭がそうする時、彼はカトリック教会に直接的に、そして真っ先に危害を加えます(そのようにして人類全体に危害を加えます)。ボノがそうする時、彼は広く一般大衆に危害を加えます。その違いはあります。しかし、人類の霊魂に危害を加えるものである、天主の真理を傷つけるものである、という点では同じです。
そして、私達は「カトリック」という名の「一つの宗教」をやっているのではありません。「数多ある宗教の中の一つ」をやっているのではありません。これは人間の「文化」ではありません。いや、当然文化の側面はあるけれども、多大だけれども、なおそれ以前のものです。それは天然由来のものです。(天然由来? 言葉は悪いかもしれないけれども。笑)
私達は「宗教を」ではなく「天主の真理を」やっています。
天然の、神与の「真理」をやっています。
だから、この地上で、ある人が天主の真理にはっきりと外れた事をしている時、私達には、基本、それを見過ごす権利はありません。また、「彼はカトリックではないから」という理由で、「私達は彼のことを、その行ないも含めて、全く自由に好いたり愛したりすることができる」と思う権利はありません。やはりその人が天主の真理に甚だしく違反している場合、私達には、少なくともその人(その行ない)に何らかの嫌悪を「感ずる義務」があります。(「感ずる」と言うより、「理性」の仕事かも知れませんが。)
だから、第二バチカン公会議後の現在のカテキズムにさえ、次のように書いてあります。
2354 ポルノとは、実際のあるいは見せかけの性行為を取り上げ、意図的に第三者に提示することです。これは夫婦が相互を親密に与え合う行為を歪曲するものなので、貞潔を傷つけることになります。また、ポルノにかかわる人々(俳優、商人、観賞者)の尊厳を大いにおとしめるものです。なぜなら、それぞれが他の人に対して低俗な快楽や不法な利益の対象となるからです。また、お互い同士を不自然な世界の幻想に陥れるものです。ポルノは大罪です。政治をつかさどる者は、ポルノ商品の生産や販売拡散を阻止すべきです。
ここには、「これはカトリック国だけのことである。カトリック国だけに適用される」などといった但し書きはありません。
また、妊娠中絶。あなたが「カトリック教徒ではない人々がする妊娠中絶」について、ただただ「彼らはカトリック教徒ではないから、彼らにカトリックの価値観から(天主の真理から)何かを言ってみるのは無意味です」と言うなら、そのような人達のお腹に宿り現に生きている胎児達に対して、あなたはどんなに冷淡なことか。
「押し付けるかどうか」は別の問題です。というか、それは根本的に不可能なことでしょう。しかし、ある人の行動・言動が、人間の霊魂を汚したり、生命を不当に奪ったり傷つけたり、あるいは天主の真理にはっきりと違反している場合には、私達はそれに対して何らかの「反対」の意思を表明しなければならない。少なくともその意思を自分の内側に「保持」していなければならない。つまり、「行動」に出すのは簡単でなくても、時に出来なくても、しかしとにかく「内面」にはそのような気持ちを持っていなければならない。
「彼はカトリック教徒ではないから」で済ましてはならない。私達は「カトリック」という名の一つの「宗教文化」をやっているのではない。私達は天主様のお創りになった天地で、教会はあっても “野” で、「霊の戦い」をしている。
だから、もしあなたが信仰に関して善き保守的傾向を持っていて、そこから「カトリックである」テイヤール・ド・シャルダンなどの思想に一定の警戒感あるいはもっとはっきりとした否定を持っていて、しかし他方で「カトリックでない」ボノの「COEXIST」に対し「彼はカトリックではないから」という理由でほとんど何の警戒も嫌悪も感じないならば、この全体の様相は非常に奇妙なナンセンスです。
・・・という観点から、ボノにも言ってあげて下さい。
「ボノ、あなたに天使と悪魔について “深いこと” を教えてもらう必要はありません。カトリック教会には全てがあります。まず第一に、カトリック教徒である私達自身は間に合ってます、お構いなく。そして、カトリック教徒でない人達は、あなたではなくカトリック教会に聞くべきです。押し付けませんが、私はそう願います。そしてボノ、あなたもまた、神、天使、悪魔、そして人間に関して、なにやら文学的・演劇的なことを掘り下げるよりも、天主様のお作りになった教会で学ぶべきです。押し付けませんが、私はそう願います。そのような大衆を惑わせる手の込んだ遊びのようなことをしていないで、カトリックのカテキズムですこぶる端的な形で真理を学んで下さい。まず『天主とは』から始めて下さい。それが先決でしょう、ボノ。」
キリスト教圏に生まれ育った者にして・・・
天使像にしなだれかかるな! 何様!
デビル・サインとロザリオ
(おまけに横には黄金の牛の像)
こういう時、日本語で何と言うか知ってるか?
何をか言わんや、と言うのだ。(おまけ)(おまけ2
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