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2010.05.29

手による聖体拝領:
「歴史的事実」には警戒しなければならない

御聖体拝領の方法についての謂うところの「歴史的事実」について聖職者達が何気にしてみせる「断定」には気をつけた方がいい。
例1) 聖イグナチオ教会の主任司祭、ドメニコ・ヴィタリ神父様
教会は1000年から2000年まで、口で頂くようにしていました。しかし、最初の1000年間は手で頂いていました。
「最初の1000年間は」とは大きく出たものです。いいんですか、神父様。
例2)『メモリアーレ・ドミニ』でさえ、長らく続いて来た尊敬すべき伝統、敬虔な方法を尻目に、不自然にも次のように強調している。
昔の習慣により信者がかえってこの聖なる食物を手で受け、それを自分自身の手で口に持っていき拝領できたことはもちろん、事実である。
ローマにて 1969年5月29日
長官・枢機卿 ベンノ・ガット
秘書・大司教 アンニバーレ・ブニーニ
この「もちろん」が気持ち悪い。
メモリアーレ・ドミニ「でさえ」と言ったが、秘書の名を読むとそうは言えなくなる。
『メモリアーレ・ドミニ』の文章としての不自然さ・怪しさについては、故ヨゼフ・マリ-ジャック神父様が指摘している。参照1  参照2(同内容)
例3)『メモリアーレ・ドミニ』公布後、典礼聖省が各司教協議会に宛てた書簡
拝領の具体的方法については、古代教会の伝統が伝えている方針に従うのがよいでしょう。司祭または助祭が、拝領者の手に聖体を置くという伝統的な方法(…)
典礼聖省
長官 ベンノ・グート枢機卿
秘書 A・ブニーニ
『メモリアーレ・ドミニ』と同じである。本当は大いに検討の余地があるものを、如何なる疑問も許さないものとしている。既成事実化している。
人はこれらの語り口だけによっても怪しまなければならない。
例4) 典礼学者、市瀬英昭神父
第二に,典礼史学的な知識も場合によって必要である。たとえば,聖体拝領は口か手かについて言えば,歴史的には,当然,「手で」が先である。これにはエルサレムのキュリロス(司教在位 348―386)の『カテケージス』 の証左がある。
この「当然」というのが気持ち悪い。
例5) 私が直接聞いた協力司祭の説教
舌で受ける聖体、これも古い伝統的なやり方です。よくわかりませんけれども、百何十年か二百年か続いていた受け方です。
もともと教会では、聖体を受ける時は手で受けていたようです。真ん中にパンと葡萄酒を置いて、分かち合うのが聖体の受け方だったようです。それが何百年となく、千何百年も続きました。
「よくわかりませんけれども」と言いつつ、実質「断定」である。
以上、これらの「断定」に対して、私達は常に次のように問い返すことを慣習としなければならない。──「見てきたのですか?」
いや、笑い話ではない。謂ゆる学者先生たちは「自分は文献を調べた。あなた方より知っている」と胸を張るかも知れないが、しかし、幾つかの文献を確認したくらいで或る時代の世界の全域を確認したつもりになっているならば、上のような素朴な問いを発する私達と負けず劣らず “素朴” である。
「学者」が「学問的」であるためには公平無私、また極めて細心でなければならないが、学者の内のかなりの者はそうではない。
次のような論考を篤と参照されたい。
a 
b 
c 
b  から少し内容を拾えば..
1)トレント公会議(1545年─1563年)は、
ミサを司式している司祭だけが(彼自身の手で)彼自身に御聖体を与えることができ、一般信徒は彼から御聖体を受けるという習慣が使徒的な伝統である。
と宣言しているそうである。
2)大教皇聖レオ1世(在位440─461年)は、口による聖体拝領のことを、当時の慣習として、
人は信仰によって信じているものを口によって受ける。
One receives in the mouth what one believes by faith.
と書いているそうである。
3)大教皇聖グレゴリウス1世(在位590─604年)は、その『対話』の中で、
教皇聖アガペトゥスは、ミサで或る人の口に主の御からだを与えた後、どのような奇蹟を行なったか
について書いているそうである。
4)ルーアンの会議(650年)というものは、
聖体はどんな平信徒(それが男であれ女であれ)の手にも与えられてはならず、ただ彼らの口にだけ与えられなければならない。
と決議しているそうである。
そしてポール・マクドナルド神父は結んでいる。
ですから、「手による聖体拝領は公的な習慣として10世紀まで続いた」と、どのように合理的に言うことができるのでしょうか。どのように、「御聖体を舌の上に与えることが中世の発明である」と主張することができますか?
以上、これだけ見ても、人はこの問題に関して「もちろん」だの「当然」だのという強調の副詞を使うべきではないのである。
使うのは、節操のない、心に思惑のある学者さんだけである。
結論
多くの司祭達がつらっと何気なくしてみせる「歴史的事実」なるものへの言及、特にその「断定」は、信頼に値しない。
そして、「参考」のためにここに置くが──もう一度言う、「参考」のために書くが──「他界からの警告」には次のようにある。
「手での拝領」のことを計画し企んだのは我々だ。我々はこう独りごちた。もし我々が初期のキリスト教徒達の間に手による聖体拝領をなんとか導入することができれば、後になってキリスト教徒は「手による聖体拝領は最初のキリスト教徒の時代にもあった」と言うことができるだろう、と。そしてそのようにして、今回の公会議、今日のこれらの人々は「最初のキリスト教徒達は手で聖体拝領していた。それゆえ、そこにはなんら間違ったことはない。彼らは最初のキリスト教徒達であり、それはキリストが生きておられた時代であった。彼らはキリストに近かった。それゆえ、手による聖体拝領は絶対に罪ではあり得ない」と言うことができるだろう、と。
これが “訳の分からないエクソシズムの記録” にあるものだというので嗤うならば、あなたは私の意図を分かってくれていない。(分かりたくもないかも知れないが。)
私が言いたいのは、要するに、ポール・マクドナルド神父が「改ざん者」という単語を出し、「手による聖体拝領に好意的なものとして、私達は疑わしい起源と内容を持ったテキストを持っている」と指摘しているように、私達の歴史の中に横たわっている一見信頼に足るように見える文献の中にも(また文献以前においても)「陰謀」があり得るということである。
そのような可能性に対して想像力を働かせ始める一つのキッカケになるから、その点で上のようなエクソシズムの記録も役に立つ、ということである。今の今、この記録を信ぜよ、と言っているのではない。
「陰謀」は有り得るからである。主の時代から。またそれ以前から。
あなたが「陰謀など全くない」と言うならば、
あなたは「キリストには敵はいない」と言っているに等しい。
あなたが「陰謀など全くない」と言うならば、
あなたは「嘘の父」とか「マムシの末」とかいう主の言葉を知らないに等しい。言葉としては知っていても、「現実感」というものをさっぱり持てていないということである。
天主とその教会に敵があるならば、当然、陰謀はあるだろう。
敵は「智恵」を持ち、まさしく智恵を “絞る” だろう。
あなたは「知性のない敵」ばかりを想定するのか?
アリス・フォン・ヒルデブラントはこう言った。
悪魔は初めから教会に対して「たくらんで」いるものなのです。そして特に、ミサを破壊すること、そして御聖体の中のキリストのまことの現存に対する信仰を蝕むことに照準を合わせているのです。(…)ヨーロッパ生まれの人間である私としては、多くのアメリカ人は単純である、と言いたくなります。平和に恵まれてきた国に住み、歴史についてほとんど知らない彼らは、ヨーロッパ人(その歴史は騒然としたものでした)よりも幻想の餌食になり易いと思います。
「悪魔は初めから教会に対してたくらんでいる」と言う時、その「初め」というのはいったいどれほど前のことだろう?
そして、悪魔はおろか、フリーメーソンにさえ、何千年もの歴史(活動)があると言われている。(その「起源」から言えば。)
イルミナティの極秘指令」を読んで下さい。
三〇、女性と平信徒に聖体を配らせろ。平信徒の時代なのだと言え。舌によってではなく、プロテスタントと同様、手で聖体を受けさせろ。
もし手による聖体拝領が信者に無害なものだったら、何故イルミナティがこんなことを言いますか?
「それは本当にイルミナティの文書なのか? 本物なのか? その証拠は?」ですって?
あなたはどのような証拠が欲しいのか? 具体的に、どのような形で証拠が出されれば、それを「証拠」と認めるのか? どうか、想像力を働かして、ご自分がどのようなものを目にしたらそれを「証拠」と認めるのか、考えてみて欲しい。ご自分のことだから、分かるでしょう。
イルミナティが情報開示請求に応じて、自らそれを世界に公表した時ですか? あるいは、バチカンの調査隊がフリーメイソンのロッジに突入した時ですか? そのようにしてそれが開示された時、あなたはそれを「証拠」と認めるのですか?
つまり.. あなたはドス黒い人間社会に対して幼稚園児の純真さを以て対そうとしているのである。
それとも、あなたは、多くの陰謀に於いては「証拠」は往々挙がらないものであることを知っている程度には人の世を知っているのですか? また、「悪魔は嘘の父」ということを知っているのですか?
しかしそれでも、「嘘かホントか分からない話には真面目に付き合う気はない」という点では、結局、純真に「証拠」を要求する人達と殆ど同じ態度なわけですか?
曰く..
私達は慎重にしなければならない。
警戒しなければならない。
何故なら、悪魔は「嘘の父」だから。
嘘に見えることは嘘だろうし、本当に見えることも嘘かも知れない
( ̄▽ ̄;)
かも知れない、かも知れない、永遠の「かも知れない」。
明日もアサッテも「かも知れない」。
識別する意欲のない、永遠の、ただ慎重なだけの慎重。
確かに、慎重なだけでは足りません。
何故なら、主は「警戒せよ」とおおせられたばかりでなく、
「見分けよ」ともおおせられたからです。
そして主は、往々、人々の「目」に、その「心の鈍さ」に、
「歯痒さ」を感じておられました。
とにかく、そんな態度では、時が進むに従い、彼らの爪はますます私達の中に深く喰い込むばかりです。
その本質を突いた性質から、その文書(イルミナティの極秘指令書)は本物であろうし、また「他界からの警告」が言うように、こういう発想は昨日今日に始まったことではなく、ほとんど主の時代から彼らの内に始まったことだろう。果してこの種の事を、私達の「文献調査」は捕捉できるだろうか? 主の時代からこの種の陰謀があったとしたら。
私は、「できない」だろうと思う。
文献調査の目では、どんなにしても「届かない」だろうと思う。
人類は、天主の唯一の真の教会の信者である優秀な筈の人々は、いつまでこの「手による聖体拝領」の導入という巨大な詐欺に騙され続けるのか。
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