2011年02月28日

テイヤール・ド・シャルダンの思想は明確に悪魔由来である

副題: 東京大司教区はテイヤール・ド・シャルダンと仲良しなのか
教区ニュース「テイヤール・ド・シャルダン研究読書会についてのお知らせ」
この読書会は少なくとも(Webで確認できる限り)1999年6月から存在しているようだ。それだけでも、もう10年を超えている。
が、テイヤール・ド・シャルダンの思想は明確に悪魔由来である。
必読
ポール・A・ウィッケンス神父様
質問: テイヤールは本当に私達の信仰にとって偉大な貢献をしたのか?
したのだとすれば、それは一種の “啓示” であったに違いない。
したのだとすれば、それは “神様からの恵み” であったに違いない。
“神様に関する何か素晴らしい事” は、神様からの恵みに決まっている。
だからそれは、もし本当にそのようなものであったのだとすれば、“神様の御旨” からのものであり、“神様の御摂理” によるものだったに違いない。
単なる “人間の考え” ではありえない。
一種の恵まれた天啓の類、スピリチュアルなインスピレーションだったに違いない。
──そうですよね。
ところで、話は変わるが、あなたは映画『エクソシスト』の中のメリン神父の姿に何となく違和感を感じたことはないだろうか?
「発掘? カトリックの神父が? そんなものなのか?」と。
それがたとえ引退した神父であろうと。
これは多くの人が知っている事だろうが、メリン神父はこのテイヤール・ド・シャルダンのイメージで作られたものなんだ。
Merrin
 
Teilhard
と言っても、両者の類似は「エクソシズム」じゃない。テイヤールにその要素はないから。類似は「考古学」と「宇宙観」。後者は小説の方を読まなければ分からないけれど。(どうでもいい話)
しかし、私はテイヤールの事を知るにつけ、以前(信者になる前)から感じていたメリン神父の姿についての漠たる違和感は間違っていなかったと思ったよ。
考えてみて。主は御自分の司祭となるべき人達に「わが羊を牧せよ」とおおせられた。けれどテイヤールという人は、司牧も、宣教も、およそ司祭らしい事は何もしなかった人だ。修道会で祈りの生活をしたのでもなかった。彼がした事といえば、その生涯の主要な部分を、岩場やら、ジャングルやら、海やらへの、謂う所の考古学の調査旅行に費やすということだった。彼はそのようにして文字通り世界中を回った。参考
もう一度言うが──彼を裁くためじゃない、私には裁けない──彼は司祭らしい事は何もしなかった人だ。主の「わが羊を牧せよ」という御言葉をほとんど気にしていなかったように見える。いや、“見える” のではなくて、事実だろう。そのような人が、ある時、その同じ神から “啓示” を受けて、少なくとも啓示 “的” なものを受けて、そのような大いなる “恵み” を受け “祝福” を受けて、“神の聖なる御摂理” の下に、神に関してなにか “宇宙的” な発見をし、ちょっと “世紀的な” と言ってみたくなるほどに素晴らしい新地平・新境地を拓いて、それを私達人類同朋に分ち与えてくれた──なんてことが、あると思う???
あるわけない。ここを「ある」なんて考えるのは、とんだ常識知らずだ。カトリック信仰における常識知らずだ。
司牧も、宣教も、祈ることもしない人のことを、主はお喜びにならない。だから主はそのような人の目を──霊的な目を──お開きになることはない。そのような人に啓示を──何らかの啓示 “的” なものさえ──お与えになるということはない。あり得ない。──これは、別に力説しなくても、「常識」だよ。
(私の口から「常識」の二文字が出ても信じられないかも知れないけれどw)
実際に起っていたのは、その正反対のことだ。
この「新」神学は混乱の源であり、あいまいで、(部分的には)幾分かの真理を利用しています。それは不条理であり、それ故におそらく悪魔に由来します。
ウィッケンス神父様
「おそらく」という言葉さえ要らない。
そして、あたかもこの事を追認するかのようにして、
1.マラカイ・マーチン神父の『悪魔の人質 Hostage to the Devil 』(エクソシストたちの体験を取材したもの)にも、テイヤールの思想に影響を受けて司祭としての力を失っていく神父の話が出て来る。参考
そして、
2.Teilhard is in hell! He burns forever for the contamination he spread throughout the world! #144 - MODERNISM
人は言うだろう──「せかっくウィッケンス神父様の文章は素晴らしいのに、それとベイサイドを並べて表示するんじゃな... 賢明じゃないな」
分かる。しかし、そのような心配の仕方、気の回し方は、まあ、私の仕事じゃないな。その種の「賢明さ」は常に嫌いだ。私は世間に仕えているのではないし、世間という名の赤ん坊を優しく世話──それが傷つかないように──しているのでもない。
あるいはこう言うだろう──「誰それが地獄に行っただとか滅んだとか口にするのは、あまり趣味が良くないね。これも決して賢明ではないね」
同意する。確かに同意する。ただしこの同意は、上のような発言・指摘( “Teihard is...” )が私自身(あるいは地上に住む他の人)の口から出た場合だ。
そして、赤ん坊をあやしているわけではないという前言に自ら従い、言わせてもらえば、残念ながら教皇様までもが、テイヤールに対する評価に於いてひどく間違っておられる。テイヤールの宇宙観に「偉大な(great)」という形容を当てておられるのだ。
後にテイヤール・ド・シャルダン(1881-1955年)は偉大な展望を思い描きました。わたしたちは最終的にまことの宇宙的な典礼をささげます。この典礼の中で、宇宙は生ける供え物となります。
教皇様も、不可謬権を発動するお気持ちなしで発言したり指示したりなさる場合、決して教会の「規律」に関してのみならず、「信仰と道徳」に関してさえ、正にその只中に於いてさえ間違い得る、と云う、いい──しかし残念な──事例です。
一介の平信徒が教皇様の信仰に関するお言葉を捉えて「間違っている」と断定すれば、多くのカトリック信者は直ぐに「傲慢」と受け取るだろうが、真実は如何。
今回の記事は、私が存じ上げている或るシスターが、テイヤールのことを否定せず、且つ更に警戒すらほとんどしておられないように見受けられたので、それをキッカケとして書かせて頂きました。そのシスターにはウィッケンス神父様の上記論考を全部印刷して送らせて頂くつもりです。
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