2011.08.30

マリリン・モンロー 1

「彼/彼女はカトリック教徒ではない」
という理由の上に育つ悪い木
これは、私ばかりでなく、インターネットを覗く、鈍感でない、しかしモノ言わぬ、きっと少なくないだろうカトリック信者たちが、とうの昔から感じていることだろう。「今頃」「今更」の感のあることだろう。
言う。
もしカトリック信者の誰かが「私はマリリン・モンローが好き、大好き」と言うならば、それはカトリック信者として適切なことではない。
というか、それはかなり、相当、どうかしている。
あなたは笑っているかも知れない。そうだ、こんなことはわざわざ取り上げる必要もないようなものだ。けれど、私はそれを見かけるたびに気になるのだ。参照
そしてそれは、以前も似たような情景を見た為でもある。それは U2 というロックグループのボノという人に関することだった。参照
しかし、この記事は、一人や二人の個人を批判するためではない。
カトリック教徒の中にしばしば見られる「考え方」に関するものである。
つまり、こうである。カトリック信者は──時には上の二番目の参照先で扱わせてもらった「篤信」の名に値する信者でさえ──往々、次のように考えるようなのだ。
  • 私はカトリック信者である。
  • しかし私は、「カトリックでない人達」に関しては、その中から自分好みの者を選ぶことができる(ボノだろうとマリリン・モンローだろうと)
  • 私にはそうする自由がある。「余程」のことがない限り、私が誰のファンになろうが、基本的に私の自由である。それはつまり、私の「個人的嗜好」だから。
  • それは、たとえ彼らが明らかにカトリックの信仰に反していてもである。それは「余程」の内には入らない。
  • 何故なら、彼らはカトリック教徒ではないのだから
(今これを読んでいるカトリック信者の何割が、上のような考えに「その通り」と思ったことだろう?)
信者の彼らは、「信仰」の領域においては、〇〇教徒らしく、物事にシビアな視線を向ける。けれど一旦「信仰以外」の領域のことになると、気が緩むというか、気を許すというか、油断するというか、寛容になるというか・・・なのだ。
この最後の理由「彼らはカトリック教徒ではない」によって、全てが支えられるかのようである。この最後の理由によって、カトリック信者は、カトリック聖職者が反真理を言えば(すれば)大いに問題としなければならないが、カトリックでない者がそれと全く同じことを言っても(しても)大して問題とする必要はなく、そればかりかカトリック信者である自分はその者を「好き」であることができる、その者の「ファン」であることができる、そうであることは許される──と考えるようなのだ。
しかし、よく考えてみてくれ。
そのような考え方は「どこか変」ではないか?
具体的な例で言えば、あなたは、もしあなたの前に「同性愛を認める聖職者」が現われたならゾッとしないではおれないだろう。あなたはそれを問題とせずにおれない。
しかし、あなたがそれを問題視する理由は「彼がカトリック聖職者だから」か?
確かにそれも大きいだろう。しかし、最も本質的な理由は「それ(同性愛及びその容認)は反真理だから。聖心を傷つけるものだから」ではないか? 最も根底的な理由は。
しかし、それでいてあなたは、同性愛を認める者が「ミュージシャン」であれば、「カトリックではないミュージシャン」であれば、あるいは「カトリックではない女優」であれば、急に寛容になり、「それは反真理である。聖心を傷つける」とは言わずに、そればかりか「自分は彼または彼女のファンでいることができる、大ファンでいることさえできる」と考えるようなのである。
変じゃないか? どこか。
罪は、人が「〇〇教徒」である以前から始まっている(有る)ものなのに。
罪は、それ自体で(他の要因に左右されず)神に対する攻撃であるのに。
私達は、幸いにして真理を知る恵みを賜わった者として、つまりは「カトリック信者」として、「姦淫」や「媚態」を演ずる女優や、「諸宗教共存主義」を叫ぶミュージシャンに関して、その「ファン」でいることができるのか
(よ〜く考えてみてくれ)
私達は「人」を裁くことはできない。けれども、「罪」を認識し、それを憎まなければならないが故に、罪を多く含んだ人生を持つ人のことを「好き」であることは到底できないだろう、という話である。
イエズス様は罪人を「憐れまれた」のである。罪人が「好き」だったわけではない。
カトリック教徒がマリリン・モンローの画像を表示しようとする時、気軽に選ぶことはできない。モノによっては「修正」を要する。
否、本当は「見てもいけない」ものが多い。顔写真でさえ、呆れるほど見事に、その殆ど全てが、口が半開きだ。(わかるか?)
彼女はそのような人、そのようなパフォーマンスをした人なのである。
彼女は「セックス・シンボル」として仕立てられた者である。その意味は、その方向に世界の流れを変えるほど極めて大きな働きを為したということである(誉めていない)。その方向性は、もちろん反キリスト教的なものである。
素朴な心に訴える簡単な質問をしてみよう。
問い
イエズス様は、また天の御母は、生前の彼女(マリリン・モンロー)の生き方・在り方がお好きでしたか?
答えは、おそらくこうである。
いいえ、お好きでありませんでした。お嘆きでした。
イエズス様も、御母も、私達と同様彼女の内にもあった「天主様によって創られた元々の霊魂」を愛しておられました。熱く愛しておられました。しかし、生前の彼女の生き方・在り方は決してお好きでありませんでした。お嘆きでした。彼女がそのような生き方・在り方に流れていった諸事情を御理解なさり、彼女のことを憐れんでおられたとしても。
「お嘆き」であったのは、彼女が映画スクリーンの中で、また写真の中で、十分に「扇情的」だったからである。彼女は世界に多くの「媚態」を流した。
女の媚態の表出を、その公衆への露出を、全世界への輸出を、聖母がお喜びになると思うか?
聖母はこうであられたのではないか?
マリリン・モンローの「行ない」に関して。
ならば何故、カトリック信者は「マリリン・モンローが好き」であることができるのか。
(よ〜く考えてみてくれ)
彼女、マリリン・モンローにおけるそれ(行ない)は「客観的」な事実である。それを客観的と言わなければ、他に「客観的」な事など何もない。
あなたはファチマをそれほど重視しないカトリック教徒かも知れない。
しかし、それでも一応言えば、
問い
ファチマの聖母が「多くの霊魂が肉欲の罪のために降る雪のように地獄に堕ちています」と警告している時に、いったい何故、これほど世界に媚態を売った人のことを「好き」などと言えるのか。
ファチマが駄目なら福音書である。
問い
「色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している。右の目がつまずきになるなら抜き出して捨てよ」という主の御言葉と「マリリン・モンローが好き」という自分の “嗜好” の両方を、カトリック信者は「同時に持つ」などということができるのか。
(よ〜く考えてみてくれ)
結論
カトリック信者は、天主様に顔をしかめられることなしにマリリン・モンローという女性の写真を自分のバナーのように掲げることはできない。
参考のために私自身のことを言えば、私は昔、若い頃、ジョン・レノンのことが相当好きだった。文字通り、数え切れないほど聴いた。
けれども、その後、“真理” を求めて行き、やがて唯一の真理、つまりカトリックの真理を見つけ(天主の恵みによって)、更にそれを私なりに求めて行くうち、ジョン・レノンのことは自然に好きでなくなってしまった。聴きたくもなくなってしまった。
それは、天主の恵みにより、またおそらく私の年齢が進んだこともあって、彼が何だったかを知ってしまったから。それで、彼のことを「好き」でも「嫌い」でもなく、彼について「醒めて」しまった。今は、強いて言えば、彼のことを「悲しむ」。彼の霊魂が滅んだかどうかは知らないが(地上の人間に言い切れるものではない)、とにかく、彼は生前、天主を知ることがなかったから。
もちろん、私も人間であり、彼のことが好きだったことは私という人間のどこか深いところと関係しているようで、今でも彼のことを「嫌い」とは言い切れないところが残っている。彼のことを擁護したい気持ちもある。けれど、このことは、「好き」というのとは全く違う。
天主の真理を知ってしまった限り、天主の真理に沿わない人のことを「好き」であることは不可能だ。
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