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2011.11.03

ヒューマニズムの煙に巻かれる教会 1

聖父
汝、われのほか、
何ものをも神とすべからず。
聖子
われによらずして
父に至る者はあらず。
汝ら、全世界にゆきて、すべての被造物に福音を宣べよ。
天主様はそのように仰っているけれど、私は、人間はそう簡単に変わるものでないと思うわ。
人類の歴史はもうずいぶん進んでしまって、皆それぞれの習慣やら伝統やらの中で落ち着いてしまっているから。
だから、世界に「愛」や「平和」をもたらすために「福音を宣べ伝える」というストレートなやり方は今やあまり効果を見込めず、どちらかというと「非現実的」だと思う。
それよりも、すべての善意の宗教とすべての善意の人々が等しく求めているものを互いの間で確認し合い育むことの方が、この際「優先される」と思う。(宣教よりも
愛や平和に少しでも近づけるものなら、福音やイエズス様のことを「前面に出さない」、悪く言えば確かに「引っ込める」ということだけれど、場合によってはそうすることも必要なのではないかしら。
動機と目的は善いのだし、きっと天主様もわかってくださると思うわ。
そして第一、教皇様がそうなさっているじゃないの
「愛教」 「平和教」 「共存教」 「人権人格尊厳教」 とでも
改名しては如何か。
少々ふざけた表現をお許し頂きたい。しかし冗談でなく、上のような情景がどんなものかを、カトリックの司祭も信徒も真剣に考えるべきである。
私が思うに、こういうのはフリーメイソンの影響のあるなしに関わらずおかしいし、間違ってる。それは「天主忠誠」ではないし「カトリック」ではない。更に「キリスト教」でさえない。
フリーメイソン
もう一度言う。上のような考え方のおかしさはフリーメイソンの影響のあるなしに関わりなくおかしい。それ自体でおかしい。けれど、私の書くことは連想のおもむくままあちこちに飛ぶ(落ち着きなし)。アントニオ・リッチャルディという人が書いた聖コルベ神父様の伝記の中に次のような記述がある。
ローマの秘密結社
イタリアの首都ローマにおいて、秘密結社がわが物顔に横行していたということは、なにも不可解なことではない。
ローマを訪れた外国の巡礼者たちは、カトリック教会の中心地、キリストの代理者のおひざもとで、最も悪魔的な反教会主義、反聖職者主義の宣伝が行なわれるのを、何とも複雑な思いで眺めなければならなかった。
あの恥ずべき冒涜者エミリオ・ゾラが、一八九四年、ローマ市議会から受けた騒々しい歓迎会を知らぬものがあろうか。神のしもべバルトロ・ロンゴによって建てられたポンペイの聖母マリアの巡礼所に対してなされた政府代表者の反対宣伝、教皇ピオ九世からベネディクト十五世に至る間の絶えざる冒涜的攻撃、これらを見逃してよいだろうか。秘密結社の二百年祭に当たる一九一七年、ヨルダノ・ブルノ死去記念日には、かつてないほどの汚聖と、悪魔のお祭り騒ぎとが荒れ狂った。この哀れむべき背教者の記念碑に向かった秘密結社の行列は、やがて大天使聖ミカエルがルチフェルに踏みつけられている旗を押し立てながら、ローマの町を練り歩いたのである。しかも聖ペトロ広場には、「サタンはバチカンから世界を支配し、教皇は彼に仕えねばならぬだろう」と書かれたのぼりや旗までが現われた。
秘密結社とその陰惨な起源に関しては、別に歴史、哲学上の深い知識を要しなかった。なぜならマキシミリアノは、事実を徹底的に見せつけられたからである。
秘密結社に、政治を支配し、権力を握ろうという単なる政治運動以上のもの、結社員に政界進出の近道を与える政党以上のものがあることを見抜いていた。また、当時の政治危機を乗り切るために起こった一時的運動でもないことを直感していた。はっきり言えば、秘密結社はキリストとその教会に敵対することを目標とする団体であることを見抜いていたのである。
聖コルベ神父様は「秘密結社」を強く意識していた人だった。あぁそれなのにそれなのに、彼を慕うことの多い日本のカトリック信者は「フリーメイソンについて語るのは何となく憚られる」なんて言うのだ。
私達もとっくに「事実を徹底的に見せつけられて」いるのではありませんか?
まだ足りないのかなぁ。
まだ「慎重」にしなければならないのかなぁ。
とにかく... 教会にはそのような敵がいるということです。
第三回アシジ平和祈祷集会
「そして第一、教皇様がそうなさっているじゃないの」
その通りである。それは先日(10月27日)開催された。
カトリック教徒を大別すれば、「普通派」と「リベラル派」と「聖座忠誠派」ということになるだろうか。
しかし、本当のカトリックはいわば「天主忠誠派」であろうか。
しかし、それ故、教皇様がアシジ平和祈祷集会を導くか許すかしておられる限り、「普通派」と「リベラル派」はもちろん「聖座忠誠派」の人達にも、その集会の或る情景を指差し、いくら「これ、おかしいよ」と言っても、ほとんど “糠に釘” である。
行事はアシジの次の二つの場所で行なわれたようだ。
聖フランシスコ大聖堂
Basilica di San Francesco
 
諸天使の聖マリア大聖堂
Basilica di Santa Maria degli Angeli
(この二つの御聖堂は4kmぐらい離れているらしい。MAP
諸天使の聖マリア大聖堂において、ワンデ・アビンボラ(Wande Abimbola)という名のネイティブ・アフリカンの呪医にして異教の祭司である人物が「女神オロクンへの賛歌」というのを歌ったというのである。
この場所で。
女神オロクンへの賛歌 Hymn to the deity Olokun
オロクンとは、アフリカのヨルバ族という民族の神話に出て来る「海の神」らしい。参照
(このような画像を掲げて、「見なさい、彼の宗教はこんなにも土俗的です」と言いたいのではない。これが日本の神官が天津祝詞を奏上したのだとしても、同じである。)
そして、彼はこう言ったそうである。(彼を責めたいのではない)
私達は、自分達の宗教は他の人々が実践している諸宗教と同様、全能の神の御目のもとに有効且つ貴重なものであるということを常に覚えておかねばなりません。全能の神は私達全てをそのような複数の異なった生活様式と信仰システムのもとにお造りになったのです。
We must always remember that our own religion, along with the religions practiced by other people, are valid and precious in the eyes of the Almighty, who created all of us with such plural and different ways of life and belief systems.
こういうスピーチをカトリックがカトリック施設内で許すのである。
(カトリックを責めたいのである。これと大差あろうか。外形は、そりゃ、ちと違う。けれど、こういうことを可能とし、許すところの心のありようは、基本的精神構造は、その根は、同じである。聖座忠誠派よ、よい加減、目覚めよ。)
同記事(それはAP通信 - 世俗の通信社のものだが)には次のようなことも書かれている。
伝統的なカトリック教徒達は、1986年の時と同様、教皇が “偽りの” 宗教のリーダー達を平和のために彼らの神に祈るよう招くのは冒涜である、と言って非難した。聖ピオ十世会、ベネディクトがローマの囲いの中に取り戻そうと取り組んでいる伝統主義グループは、そのイベントによるダメージを償うために1000のミサが捧げられるだろうと言い、教皇に、そのイベントを他宗教の人々にカトリックへの改宗を呼びかける機会にすべきであると訴えた。
教皇はそのようなことはしなかった。しかしベネディクトも、1986年の時にはその集会に反対し、出席しなかったのである。彼は異宗教の人々が同じ場所で祈ることを受け入れなかった。彼が教皇である今回の25周年にあたる集会では、混合主義の、あるいは異なった信仰と実践の結合のどのような匂いも消すために、公的な共同の祈りは全て取り払われた。
Traditional Catholics condemned the meeting as they did in 1986, saying it was blasphemy for the pope to invite leaders of "false" religions to pray to their Gods for peace. The Society of St. Pius X, a breakaway traditionalist group which Benedict has been working to bring back into Rome's fold, said it would be celebrating 1,000 Masses to atone for the damage done by the event and urged the pope to use the occasion to urge others to convert to Catholicism.
The pope did no such thing. But Benedict too objected to the 1986 event and didn't go, disapproving of members of different faiths praying in the presence of one another. His 25th anniversary edition stripped away all communal public prayer in an attempt to remove any whiff of syncretism, or the combining of different beliefs and practices.
でも、教皇様、それでも同じです。
レインボー
また連想だが。
上に引用した記事の表題は「Rainbow of religious leaders join pope for peace」であった。レインボーは言うまでもなく「多様性」の象徴だ。
ちなみに、左は、2009年に前教皇様の出身地クラクフで開催された「アシジの精神」を思い起こす(?)催し、のポスターである。
下は、その時の会場の模様である。
ヴェネツィアのウナ・ヴォチェは「祭壇にレインボーフラッグはイケマセン」と言っている。abuso liturgico(典礼の誤用)だと。参照
教会や聖職者を名指しするとは、それなりに根性がある。
けれど、それでも「アシジのレインボー」には反対しないのだろう。
1997年のワールド・ユース・デイでレインボーを身につける高位聖職者達
http://www.traditioninaction.org/RevolutionPhotos/A102rcRainbowVestments.htm
* * *
一言で言えば、教会の最高位階の指導者達までがこんなだから、平信徒の心の中にも「彼/彼女はカトリック教徒ではない」という理由の上に育つ悪い木が生えちゃうんである。それは自然なことである。
対象が「世俗界」のエンターテイナー(ボノモンロー)であろうが、「宗教界」の他宗教の人々であろうが、起こっていることの基本構造は似たようなものなのだ。どちらにおいても、「彼/彼女はカトリック教徒ではない」という土壌から始まって、その上に似たような枝振りの木を生やすのだ。
「ヒューマニズム」という言葉が悪い意味で使われることもあるということをまだ学ばせてもらっていないカトリック信者はいるのか?
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