2011.11.17

前教皇様を正しくお愛し申し上げる方法 2

ちょっとイケ好かない表題だが ↑ 、「聖ピオ十世会は前教皇様の『悪口』を言っている」としか捉えられない “聖座忠誠派” に、一つの “モノの見方” を提案するために、あえて。
最も素朴な質問も取り上げておこう。
こういうのが駄目と言うのなら、私達はテレビで女子体操もフィギュアスケートも見れないじゃないですか。
世俗の世界に置かれたそれらは、「教会」の領域に置かれたそれらよりも、罪の「量り」は軽いことだろう。しかし、それでも、天主様がそれをも快く思っておられないのは、基本的に確かだろう。(特に、最近の女子フィギュアスケート選手たちのしていることといったら... )
敵は当然、教会の内ばかりでなく、その外にも毒を撒くからである。
広く、人類を堕落させるために。
私達の戦い、善悪の戦いは、教会の壁さえ越えて、「文明大」であるだろう。(当り前である。)
もっとも、敵という敵がいなくてさえ、人間はどのみち、その方向に(罪の方向に)流れるのかも知れないが。
最初のブラジルの写真(参照)と同じく、これも「聖体大会」での一齣。
1997年
イタリアでの聖体大会におけるロック・コンサート
イタリアでの第23回聖体大会において、ヨハネ・パウロ2世は、聖体の秘跡に敬意を表して特別の崇敬を捧げる代りに、そのイベントをロック・コンサートに変えた。多くのロックスターが招かれた。
写真はボブ・ディラン。彼は彼のよく知られた歌の何曲かを歌った。
彼の後方に教皇のシルエットが見える。
観衆に向けて(おそらくは全ての若者たちに向けて)語る中で、ヨハネ・パウロ2世はディランの歌についてコメントした。「あなた方の代弁者は、あなた方の人生の諸問題への回答は風の中に舞っている、と言っています。本当です。それは霊の息吹と声という風の中にあるのです。」
教皇様が「聖体大会」の中でこのようなものを許すなら、若者たちがその「巡礼」の中でロック・コンサートを開くのは当然ではないか。
前々回紹介したWYDについての記事の中に次のような一節があった。
ローマでは(…)教皇ミサでは、薄地のコスチュームに身を包んだ踊り子たちが取り入れられた。参照
これらしい。
2000年
ローマでのワールド・ユース・デイにて
私達は、サルタン〔イスラム教国の君主〕たちが彼らの気晴らしとなる踊りをおどる女奴隷たちを持っていたことなら知っている。私達は、自分たちのために踊るバレリーナを見て楽しんだヘロデのような異教徒の王たちのことなら知っている。しかし、この種のエンターテインメントを持っていたカトリックの聖なる王がかつてあったとは知らない。教皇についてはなおさら、その中の誰かがかつてこのような慣習を持っていたことなど思いもよらない。
教皇の気晴らしのために習慣的に催されるこのような慣習を見るために、私達は第二バチカン公会議まで、そしてそれが教会に行なった進歩主義的改革まで待たなければならなかったのである。
私は、これが文字通り「ミサ中」のものであったかどうか確信が持てない。
ミセス・フェレイラは確かに “the papal Mass featured dancing girls” と書いており、上の二番目の写真の説明にも “Watching a dancer during Mass” と書いてある。しかし一番目の写真の説明では “during a session of World Youth Day 2000” となっているのである。
私には、上の教皇様の御様子や周囲の模様を見れば、“during a session” というのが正しいのであって、文字通り「ミサ中」のものではなかったのではないかという気がする。
が、そうだとしても、上の Tradition in Action の言葉にはなお価値がある。その通りだからだ。
現教皇様になってからも似たようなことをやってる(やられてる)。
2010年
パウロ6世ホールにおけるゲイ関係のサーカス
「ゲイ関係の」としたのは、ある種の正確さを期してである。写真の彼らは彼らのグループを「ゲイ」とはしていない、しかし彼らは別の大きなゲイのサーカスの団体、「ゲイ促進のアジェンダ」を持った団体と「少なくとも親しく」、一緒に興行を行なったりしている、ということである。やっぱりゲイであろう。
このように、敵の手法はかなり安っぽい。
が、とにかく彼らは「入り込むこと・入れ込むこと」に成功しているのである。
特に、パウロ6世ホールには何でも入る。(共産軍
「名」に騙されるな
これは「アクロバット」です、「サーカス」です、「演技」です、「ダンス」です、「スポーツ」です、「パフォーマンス」です、「表現」です、「アート」です、「エンターテインメント」です、「ジョーク」です、「ファッション」です……等々と言われて、「そうか」と思ってはならない。
「名」に騙されるのは人間の常なる弱点の一つである。
(「言語」には、元来、人間の「直接的な知覚」を阻害するようなところがある。目があるのに “盲目” になるのは人間だけだ。動物と違って知性が、言語的知性があるせいだ。言語を使っているようでありながら、実は使われている。言語的になればなるほど知覚が、世界の把握が狭まるようなところがある。「枠に嵌められる」かのような。一種の “催眠術効果” の下に置かれるかのような。)
なんだかこのページは表題とは関係のない感じになってしまったが、これで終りとする。あとはあなた自身にお任せする。すなわち……
これをあなたの心の中で確認してください。
教皇様に会ってお聞きしなくても分かることである。
了。
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