2011.12.10

一度「地獄行き」を宣告された司祭

スティーブン・シャイアー神父
Fr. Steven Scheier
彼の着ているユニフォームは私達にとって見慣れないものですが、Intercessors of the LambWiki-en)という会のものらしいです。
内容が重複していますが、下に、彼に関する三つの記事を掲げます。〔 〕と強調は管理人。
私は、この物語の「真正性」については、つまり、この神父様が本当に本物のイエズス様とマリア様の御声を聞いたかどうかは、もちろん分かりません。
しかし、それでも、私達の信仰に照らした時、この物語の「真実性」に関しては、問題ないだろうと思います。否、むしろ十分に示唆的だろうと思います。
初めは、Thomas W. Petrisko という人の The Miracle of the Illumination of All Consciences という本から。(Google books で拾っただけですが。)
第12章
スティーブン・シャイアー神父
トーマス・W・ペトリスコ
“知恵のある子どもは、戒めをよろこび、嘲る人は、叱責を聞かない”
- 格言の書 13:1
1985年、スティーブン・シャイアー神父はトラックと正面衝突した。意識不明〔肉体的〕の状態で、彼は神の判事席の前に居る自分に気づいた。
私は神の判事席の前に居ました。その御姿は見えませんでした。私の人生について多くの事が言われました。個々の事例について言われる度、私に出来たことと云えば、心の内で「そうです...そうです──その通りです」と言うことだけでした。反論はありませんでした。神は最後にこう言われました、「汝に対する全永遠にわたる判決は『地獄』である」。私は心の中で言いました、「わかってます──私はそれに値します」。その時、私は一人の女性を声を聞きました。その声は言いました、「子よ(Son)、彼の命に猶予を与えて下さいませんか?」。そして主は言われました、「母よ──彼は12年の間、私のための司祭ではなく彼自身のための司祭だったのです... 彼に、彼がそれに値する罰を刈り取らせましょう」。そして私は彼女がこう返答するのを聞きました、「しかし、子よ、彼に特別の恵みと力を与えてみて、彼のよく知らない方法で彼の世話をしてみて、彼が実を結ぶかどうかを見させて下さい... もし彼が実を結ばなかったら、御旨のままになさって下さい」。ほんの少しの間がありました。そして主は言われました、「母よ、彼はあなたのものです」。
シャイアー神父は、自分が全く地獄行きに値したことを振り返る。彼は自分の司祭としての務めを果していなかった。
私は仲間内のプレッシャーに耐えることが出来ませんでした。言い換えると、私は人々(guys)の中の一人でいたかったのです。この時代にあって司祭達は、自分もただ人々の中の一人である必要を── 一人の平信徒である必要を──感じるようでした。そしてこの事は、私が司祭達や平信徒達と関わった他のどんな場所より説教壇において顕著でした──何故なら、司祭達は立ち上がり、平和、愛、喜びについて語るからです──モラルについてではなく、ドグマについてではなく、何であれ教会がそうであるところのものについてではなくです──何故なら、もしそんなことを話せば人気がなくなってしまい、司祭が人気を失えば、それは由々しき事だからです。何故なら、それはお金が入って来なくなるということを意味するからです。それで、もしお金が入って来る状態を続けたければ、人々が聞きたいと思っている事を話さなければならない、というわけでした。
言うまでもなく、シャイアー神父は今ではすっかり変わってしまった。国中の多くのプログラムに顔を出しながら、請われればどこにでも、彼の物語を語るために、耳を傾ける全ての人にこの現実〔リアリティ〕を伝えるために、旅をしている。
だから、この物語は示唆的です。
ここに見られるのは、またしても「ヒューマニズム」です。
「愛」「平和」「喜び」、そして「自由」「共生」「人格の尊厳」でありましょう。現代の司祭達は人の耳に聞こえのいいことばかりを言います。
たまにカトリック教会らしいことを言うのかと思えば、その話は確かに「気の抜けたサイダー」です。真綿に幾重にもくるまれたようなことばかり言います。
司祭においても、また信徒においても(信徒にも責任があります)、「私達を “怖がらせる” ものはすなわち “悪”」であるからです。少なくともそのような “態度” を取っています。
そして、ここには「説教壇」という言葉があります。
私は再び、教会が認めていない、否、検討もしていない記録に、遠慮なく注意を引きたいと思います。あまりに「権威」に親しいために人として “目の基礎的な力" を失っているカトリック信者達の前に。
ご覧下さい。「元司祭の悪魔、ヴェルディ・ガランデュー
「説教壇」についてどんなに正しい事を言っているかを!
(私は「まず “内容それ自体” を検討して下さい」と言いたいのです。「彼の言っていることはホントですか? ウソですか? ……ウソ? 結構です。しかし、ではどこがウソですか? 具体的に」と。そのような「検討」ぐらいあっていいでしょうという話です。しかし、多くのカトリック信者はそれすらしないのです。曰く、「検討する必要などありません!」。
だから、そんなことだから、ある意味、「目」が育たないのです。……そして、以前も言いましたが、あなたはもし、それが本当に天国が悪霊に強制して言わせたことであって、そしてもし、あなたが向こうの世界に行った時にそれが本当だったと分かったなら、その時、天国に謝りますか?「私は、地上に居た時、それが分かりませんでした。そういう事があり得るとは考えもしなかったからです。申し訳ありませんでした」と。……謝らないのでしょう。というか、そういう可能性について考えたこともないのでしょう。というのは、ほとんどの人は「信者は教会に聞くだけで十分です。教会は主がお定めになった地上における主の代理者だからです」としか考えないからです。しかし、教会が天主の声を聞くにおいて “不十分” であった場合、信者はそのことに気づいた方がいいのではありませんか? 信者は一人ひとりが “天主の信者” ──あるいは “天主への信者” ──なのですから。)
シャイアー神父様のもう一つのビデオ
 
次は、教皇座空位論者(セデヴァカンティスト)のサイトからです。
私は空位論には決して同意しませんが、彼らのサイトから、否、どんなサイトからも、ただ情報の一片を取るだけなら構わないと思っています。
イエズス・キリストから地獄行きを宣告された司祭に会った
マイケル・ディモンド
数ヵ月前、私はスティーブン・シャイアー神父と二、三度話すことが出来ました。もう何年も前のことですが、シャイアー神父は彼のフォード・サンダーバードで前方の車を追い越そうとして、ピックアップ・トラックと正面衝突しました。激しい衝突は彼の頸椎を折り、彼の頭皮をほとんど剥がしました。シャイアー神父は直ぐにヘリコプターで病院に搬送されました。着くまでの間、救護隊員は彼の命を救おうと必死に働きました。かろうじて生きていましたが、彼は死の静寂の中に滑り込みました。その次に起こった事がシャイアー神父を永遠に変えました。
突然、彼は自分が一人で居ることに気づきました。それは別次元の世界でした。彼が「広大なスピリチュアルな空所」と呼んだものです。
シャイアー神父
「私は全能の天主... 主イエズス・キリストの判事席の前に居ました。主は[私は彼の御姿を見ませんでしたが、その御声を聞きました]私の全ての告白していない罪を、許されざる大罪を展開されました。私の人生について多くの事が言われました。個々の事例について言われるたび、私に出来たことと云えば、心の内で「そうです──その通りです」と言うことだけでした。反論はありませんでした。天主は話を終えられ、最後に言われました、『汝に対する全永遠にわたる判決は〈地獄〉である』」
「私は心の中で言いました、『わかってます──私はそれに値します』。もし私が私自身で自分に宣告したのだとしても、同じことでした。私は生前、自分で自分の人生を選んでいたのであり、彼はその選択を尊重していたに過ぎません。」
「私が次に聞いたのは女性の声でした。私はこの時も、その姿は見ませんでした。しかし彼女は言いました、『子よ、彼の〔肉体の〕命と永遠の霊魂に猶予を与えて頂けませんか?』」
「男性の声が言いました、『母よ、彼は12年の間、私のための司祭ではなく彼自身のための司祭だったのです。彼に、彼がそれに値する罰を刈り取らせましょう』」
「短い間がありました。そして女性の声が言いました、『しかし、子よ、彼に特別の恵みと力を与えてみて、彼のよく知らない方法で彼の世話をしてみて、彼が実を結ぶかどうかを見させて下さい... もし彼が実を結ばなかったら、御旨のままになさって下さい』」
「そして、ほんの少しの間を置いて、男性の声が言いました、『母よ、彼はあなたのものです』」
助かる見込みはたったの15%しかなかったに拘らず、そして良くしても、生涯にわたる麻痺が残っても何ら不思議ではなかったに拘らず、シャイアー神父は全ての確率に逆らい、説明の出来ない回復を遂げました。
シャイアー神父は、自分が全く地獄行きに値したことを振り返ります。彼は自分の司祭としての務めを果して来ませんでした。
「私は仲間内のプレッシャーに耐えることが出来ませんでした。言い換えると、私は人々(guys)の中の一人でありたかったのです。この時代にあって司祭達は、自分もただ人々の中の一人である必要を、一人の平信徒である必要を感じるようでした。そしてこの事は、私が司祭達や平信徒達と関わった他のどんな場所より説教壇において顕著でした──何故なら、司祭達は立ち上がり、平和、愛、喜びについて語るからです。モラルについてではなく、ドグマについてではなく、何であれ教会がそうであるところのものについてではなくです──何故なら、もしそんなことを話せば人気がなくなってしまい、司祭が人気を失えば、それは由々しき事だからです──何故なら、それはお金が入って来なくなるということを意味するからです。それで、もしお金が入って来る状態を続けたいなら、人々が聞きたいと思っている事を話さなければならない、というわけでした。」
次は、おそらく普通のカトリック神父様の説教。
説教
スティーブン・シャイアー神父とイチジクの木の喩え話
トミー・レーン神父
スティーブン・シャイアー神父は1973年に叙階されました。残念なことに彼は、自分がイエズス様のための善い司祭になることよりも、他の司祭達が彼のことをどう思うかについての方を気にしていました。彼の司祭職はイエズス様に仕えるためではなく、人々の賞讃を勝ち取るためのものだったのです。心の底では彼も、自分があるべき姿になっていないことを、自分があるべき司祭になっていないことを、知っていました。しかし彼が言うには、彼は、人々が彼のことを善い司祭だと思う程度にまで、その真実を隠したのです。
1985年10月18日、シャイアー神父はカンザス州ウィチタから同州フリドーニアの彼の教会(Parish of the Sacred Heart)に向かっていました。86マイル〔約138km〕の行程です。その幹線道路にはほとんど路肩がありません。そしてトレーラーやトラックやバンなどがかなり走っています。
〔それはおそらく U.S. Route 400 だろう。幹線道路 ─ highway ─ とは言っても、カンザス州の田舎道である〕
その朝、彼は一人の司祭に会うためにウィチタに行き、午後に帰路につきました。そして恐ろしい事故に遭ったのです。ピックアップ・トラックとの正面衝突、そして神との正面衝突です。ピックアップには三人の人が乗っていました。誰も死にませんでした。シャイアー神父は車から投げ出されました。彼の頭皮の右側がすっかり剥がれました。医者はのちに、彼の脳の右側は部分的に全体から離れ、そして多くの組織が壊れた、と彼に言いました。事故現場では彼は意識不明でした。病院に搬送中、救急車の中で、一人の看護婦が彼を看ていました。彼女がのちに語ったところによると、彼女は天使祝詞を言いながら彼を助けようとしたそうです。しかし、実は彼女はそれを知りませんでした。けれど、シャイアー神父自身がそれを繰り返し唱えていたということです〔管理人:彼女はそれを聞き取って、神父様を真似るようにして自分でも唱えたのだろう〕。彼はカンザス州ユリーカの小さな病院に運ばれました。彼は首の骨を折っていました。C2、第二頸椎の骨折、いわゆる hangman's break の状態です。もし事故現場で彼の頭がどちらかに傾いていたなら、彼は窒息していたでしょう。医者は、自分に出来ることはあまり多くないと言い、シャイアー神父の頭皮を縫いつけ、そしてレスリー病院からウィチタの救急ヘリを呼び寄せました。そして彼らはシャイアー神父をウィチタまで運んだのです。彼は意識不明だったので、自分が搬送されたことを知りませんでした。偶然その病院に居合わせた彼の教会の一人の信者は、彼が生き延びる可能性は15%しかないと言われました。異なったキリスト教宗派の多くの人々が彼のために祈ってくれました。シャイアー神父は、神は全ての人々の祈りを聞きたもう、だからこそ自分は今ここに居るのだ、と言います。彼は手術を受けませんでした。事故は10月に起き、そして12月2日に、彼は病院から解放されました。彼の頭の周りにはまだ支持器が、彼言うところのハロー〔光輪〕がありました。4月にハローを外すことが出来るまで、彼は家で回復を続けました。彼は1986年の5月に彼の教会に戻りました。
ある日のミサでのことです。福音朗読の箇所は今日と同じく、イチジクの木についてのところ(ルカ 13:1-9)でした。彼が福音書を読み上げていると、見ているページが明るく照らされ、大きくなり、本から離れて彼に向かって来ました。彼は彼の出来る最高の状態でミサを終え、司祭館に戻り、そして、事故直後に起こった霊的な会話を思い出したのです。その会話があったその時、シャイアー神父はイエズス様の審判の前に立っている自分に気づいたのでした。それがどれくらい続いたかは彼にも分かりません。彼によれば、主は彼に彼の全生涯をお示しになり、そして彼が彼の司祭としての務めをどれほど失敗していたかをお見せになりました。シャイアー神父はイエズス様が彼の人生について言われた全てについて「はい〔その通りです〕」と言いました。シャイアー神父は、事故前は、自分がイエズス様の判事席の前に行ったら「自分はいつも罪を犯すように余儀なくされたのです。ほかにしようがなかったのです」と言うつもりでいました。幾つかの弁解を、用意万端整えているつもりでした。事故前、彼は定期的に告白に行っていました。しかし、それは適切さを欠きつつでした。つまり彼は、彼の生き方を変えるようには〔告解の〕秘跡を利用しなかったのです。彼には生き方を改めるつもりがありませんでした。事故後、彼は、自分がした告白はいったいどれほど有効であったのか、と疑うようになりました。何故なら、彼は生き方を改めるという目的を持たなかったからです。事故前、彼は、自分には回心する時間があるだろう、と考えていました。しかし審判の場で、イエズス様は彼に、時間などないことを教えられました。今や彼は、イエズス様の前で、「真実」に対して話していました。そして、人は「真実」に対して話す時、弁解することが出来ないのです。彼についての審理の最後に彼がイエズス様から受けた判決は「地獄」でした。シャイアー神父は「はい」と言いました。それが彼が当然負うべき唯一の論理的帰結だったからです。しかしその時、彼は一人の女性が「子よ、彼の〔肉体の〕命と永遠の霊魂に猶予を与えて下さいませんか?」と言うのを聞いたのです。主は答えられました、「母よ、彼は12年の間、私のための司祭ではなく彼自身のための司祭だったのです。彼に、彼がそれに値する罰を刈り取らせましょう」。「しかし、子よ」と彼女は言いました、「彼に特別の恵みと力を与えてみて、彼が実を結ぶかどうかを見させて下さい。もし彼が実を結ばなかったら、御旨のままになさって下さい」。ほんの少しの間がありました。そして、イエズス様は言われました、「母よ、彼はあなたのものです」。
その時以来ずっと、彼は聖母のものです。事故前、彼は聖母と特別な関係を持っていませんでした。しかし、その時以来、聖母は彼にとって全てとなりました。イエズス様は、十字架の足元のご自分の母を見られ、彼女を全教会の母になさいました。シャイアー神父は、彼女はその事を全く文字通りに、真剣にお取りになった、と言っています。シャイアー神父はイエズス様の御憐れみを経験しました。しかし、聖母こそが、それを彼のために執り成して下さったのです。彼はこの美しい真実を学びました。聖三位のどなたも、聖母に「ノー」と言うことがお出来にならないのだということを。それは不可能です。彼らは彼女に「ノー」と言いません。シャイアー神父は、「もしあなたに、あなたの側に立ってもらいたい人がいるとすれば、それは彼女ではありませんか?」と言っています。
私達は神を信じています、聖母を信じています、そして諸聖人を信じています。二つの方法で、つまり、頭と心で。しかし、かつてのシャイアー神父は、頭では信じていても、心では何も知らなかったのです。彼は天使と諸聖人を信じていました。しかしそれらは、彼にとっては見かけの友人であって、リアルなものではなかったのです。事故後、彼はそれらが非常にリアルなものだと気づきました。私達にはただ一つの故郷があり、しかしそれはここではないということに気づきました。シャイアー神父は、私達は多くの場合、物事の優先順(priorities)というものを取り違えている、と言います。
〔管理人〕
再びこれ(←)に関係する話です。
少しも難しい話ではありません。
なのに何故、カトリック信者は
いつもいつも「でも... でも...
っていう感じなんです?
学識深く保守的な(と間違って思われている)神父様、このあたりの事について、ひとつ明確な、スッキリとしたコメントをお願いいたします。
彼もかつては取り違えていました。彼にとっての最優先事項は、彼自身の霊魂を救い、また他の人々の霊魂をも救うという事でなければなりませんでした。彼がもしあの時死んでいたとしても、彼の教会の信徒達は彼が地獄に行ったとは考えなかったでしょう。しかし、イエズス様は世論調査を利用なさいません。私達は審判の時、イエズス様の御前に一人で立つのですから、もし誰かが私達について考える事が重要だということがあったとしても、その「誰か」とは私達にとってはただイエズス様お一人なのです。私達は誰かが私に罪を犯させたと言うことは出来ません。イエズス様は真実をご存知です。
シャイアー神父は、叙階後からの12年間には、自分はイエズス様のための司祭ではなかったと言っています。イエズス様のために苦しむよりも、彼は彼自身のための司祭であったのです。彼はいつも十字架から逃げていました。しかし、もし私達が十字架から逃げるなら、あとからもっと大きなものがやって来ます。彼は、その12年間においては自分は臆病者だったと言っています〔管理人:この神父様を責めはしない。しかし、臆病者に悪魔の世話は要らない。臆病者は放っておいても大勢に従う!〕。現在、彼の使命は、人々に、イエズス様の愛はイエズス様の正義を上回るという事、地獄は存在するという事、私達は地獄に落ちやすい〔値する〕という事、そしてイエズス様の神の御憐れみ〔Divine Mercy〕は有るという事を知らせることです。私は、本日の福音朗読にあった喩え話の言葉を引いて終りたいと思います。それは今や、シャイアー神父のことを思う時、特に深い意味を帯びて来るものです。
また、こんなたとえを話された、「ある人が自分のぶどう畑にいちじくの木を植えていた。実を探しに行ったがなかったので、ぶどう畑の小作人に、〈私はもう三年もこのいちじくの実を取りに来ているが実はならない。切り倒しなさい。なぜ土地をむだにするのか〉と言った。すると小作人は、〈ご主人さま、今年も勘弁してやってください。私がまわりを掘って肥料をやります。そうすれば実がなるかもしれません……。もし実がならないなら切り倒してください〉と答えた」。(ルカ 13:6-9)
The Barren Fig Tree
実のならないイチジクの木
天主様の御目には非常に厳しいものがあると思います。
ナニ? このエピソードは信仰箇条でもなければ
教会によってその真正性が認められているのでもない?
カトリック教徒はいつもそんな事ばかり言ってる……
しかし「可能性」としてこの逸話も視野に入れておくべきでしょう
という話です。
理由?
理由は簡単です。
後悔先に立たずだからです!
《ページ移動のためのリンクはにあります》
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system