2011.12.31

習い性

前にも言ったことだが………
「カトリック信者」はモノを見る際にあまりに「権威」に依存しており、そのため人として「目の基礎的な力」を失っている。
別のブログでプロテスタント向けに作った画像
だが、私はカトリック信者に対しては別のことを呼びかける必要を感じる。
確かに、「平時」においては、それは良い「安全の柵」である。
しかし、「有事」においては?
教会の最上部にまで「サタンの煙」が入ってしまっていたら?
(入っているのだが。)
その時、モノの見方と考え方において「習い性」が強く、ほとんど「権威の前に己れをなくす」という原理しか持っていないような、そのような「固定的レール」の上を進むことしか知らないようなカトリック信者は、少々「にっちもさっちも行かない」ような状態になるだろう。
(なっているのである。)
しかし、聖ジャンヌ・ダルクの例に見るように、信仰者とは、最も深くは「天主に聞く者」なのだ。危険が伴おうとも、究極的にはそのようにしか描写できないところの「者」なのだ。
聖ジャンヌ・ダルク自身も、自分を取り巻く「政治的なもの」に気づいてはいただろう。しかし、それはともかくとして、彼女を責めていたもの(コーション司教など)は確かに「教会の権威」の部分を構成するものだったのである。その前で彼女は、結局はこう言うしかなかった──「いいえ、私の聞いたのは確かに神の声でした」。彼女は最後までそれだった。
私達にとって危険であろうとも、確かにこれが「信仰」の究極の「リアリティ」である。
あるいは、モーセが「燃える柴」を見た時である。そこにはそれが何であるかをモーセに教える「教会権威」など何も無かったのだ。
現代のカトリック教徒は、危険を恐れるあまりか、自分もその地点に立ってみることを全くと言っていいほどしない。その意義を検討することもしない。
しかし、あなたは「信仰者」でしょう?
どうして、そのいわば “プリミティブな地点” を忘れ去ることができるのか。
「知的」に進むのも、「教養的」に進むのも、「良識的」に進むのも、結構。
しかし、もしその過程の中でその地点を、その原初的な地点を忘れ去るなら、むしろ “致命的” である。
あなたは「見ても信じない」と言われるクチではないだろうか?
ベイサイドの聖母出現
主の時代にあって主のことを「これはただの大工の息子である」という頭(先入観)でもって「主の何であるか、誰であるか」を見抜けなかった人達が当時の “宗教権威” に親しくなかったとでも思うのか???
彼らはある意味、それに親しかったからこそ見抜くのが困難だったのである。大いに邪魔されたのである。自分自身の「目」に邪魔されたのである。──しかしその「目」はその時代にあって普通に「宗教的」と称される目であったことだろう!
その時、大工の息子として立ち現われた主を「信じる」とは、「地上に既に出来上がっている権威を仰ぐ」ということとはあまり関係のないものだったのだ。それはほとんど「新興宗教」に対面するようなものだった。人はほとんど自分の心に聞くしかなかった。
しかし、それが人間にとってどういうことだったかを想像力を働かしつつ考えることの「意義」を、あなた方は認めないのである。
確かに、あなたがカトリック教徒であれば、「イエズス・キリスト=天主・救い主」という構図があなたの頭の中から飛び去ることはないだろう。
しかし、それで十分なのではない。あなたは「頭」ではその真理を保持していながら、その「耳」では天主の声を拒否するということがあり得るのである。
あなたが《向こうの世界》に行ってから、自分は生前、実は神の声に対する「否定者」、あるいはもっと酷くは「嘲笑者」でさえあったと気づいて恥じ入る、ということになりませんように。(最も端的なのは、御聖体拝領の方法の問題である。あなたが、死後、「聖座は手による立ったままの聖体拝領を認めていたが、本当は、それは天国が嫌うところのものだったのだ」と気づいて恥じ入る、ということになりませんように。)
そうだ、神の声。これに関するカトリック信者の捉え方も一つの「習い性」となってしまっている。すなわち「公的啓示」「私的啓示」という分類である。
その分類は一定の意義のもとに必要だろう。しかし、考えても見給え、もしそれが真に神の、あるいは神の派遣し給うた正当なる使者の声であったならば、それが「私的啓示」だからといって価値が幾分か下がるものだろうか?
あなたは今の重要な(と私には思われる)質問を今まで考えたことがあるか?
あなたは「根本的」「究極的」に考えたことがあるか?
「たとえ万が一、百歩譲ってベイサイドの啓示が真正なものだったとしても、それはせいぜい私的啓示である。それなのに、何故この人は、あたかも非常にそれに執着しているかのように、毎度それを引き合いに出すのだろう。ちょっと異常である」……そう感じている人が多い筈である。しかし……
1.私にとっては「神の声であるか否か」があるだけである。
たとえ「私的啓示」であれ、それが「神の声」であれば(現実的には、私がそう確信すれば、ということだが)、私はそれを脇に置くことはできない。
2.そして、それだけではない。
私にとってベイサイドの啓示は「不当に否定された神の声」なのである。
この二つの理由によって、私は何だか、黙っていることができない。
これはこれで自然であるかも知れない、ぐらいに思って頂ければ幸いである。
しかし、「私」のことはよいのである。良いお年を。
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