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2012.01.25

「すべての民の御母」 は悪霊である 1  必要な目

この「粗悪な詐欺」に大騒ぎする必要はないかも知れない。
しかし、「悪いもの」を確認することによって「善いもの」を確認する。
すべての民の御母
「必要な目」などと、いかにも自分は目利きだと言わんばかりで、嫌味である。読む人は、私の文章のそこかしこで、そのような嫌な感じを受けるだろうと思う。それは自分でも分かっている。
しかし私は、そんなことに気を使うよりも、何よりも「はっきり言うこと」の必要を感じる。
すべての民の御母。私自身はこれについて数年前に結着している。しかし、最近ちょっとした事があり、この「粗悪な詐欺」に引っかかっている人がまだ居ることを改めて見た。それで、少しばかり書くことにする。
「悪魔は99%の真実に1%の嘘を混ぜる」
「悪魔は99%の真実に1%の嘘を混ぜる」とはよく言われることである。
私はこの言葉がどこから来たものか知らない。しかし、同意する。
が、それが如何に真実を言い当てた言葉であろうと、ただ “言葉” としてそこに置き物のように置かれていたのでは、ほとんど意味がない、存在意義がない。それはどうしても現実に活用されなければならない。
つまり、いくら「悪魔は99%の真実に1%の嘘を混ぜる」という “言葉” を振り回していても、では悪魔はどのような手口でその「騙し」を行なうのかという “実際” のところを知らなければ、やっぱり騙されるであろう。(私的啓示に関心を持つ人は、だが。)
この辺の事を少し考えてみよう。
ここに一つの「私的啓示」があったとする。
それは「真理」についての(とそれ自身が主張する)、「神の御旨」についての(とそれ自身が主張する)、一連の言葉世界を展開する。
しかし「悪魔は99%の真実に1%の嘘を混ぜる」というのが真であれば、人はそれらの言葉をぼんやりと読むわけにはいなかい。警戒的に読まなければならない。「1%の嘘」があるなら、それに気づかなければならない。(しかし、どうやって?)
例えば、ある日、あなたの前に「聖母」を名乗る霊が現われて、こう言ったとする。
世界は堕落の中にあります。
世界は次々と続く大惨事に苦しんでいます。
この世界は経済的にも物質的にも破滅に向かっています。
『まことの霊』の助けが来ないかぎり、
そのプロセスは終わらないでしょう。
人びとを十字架のもとへ再び連れ戻しなさい!
あなたは思わずいちいち頷く。これらの言葉はどれも全く真実の響きを持つ。
しかしあなたは「悪魔は99%の真実に1%の嘘を混ぜる」と知っている者である。だから、まさか、この数行の言葉だけで、それが「聖母」であると信ずる(断ずる)わけはないであろう。
では、数十行読めばいいのだろうか。あるいは数百行?
私は「否、何百行読もうが駄目だ」と言いたいと思う。
「読む姿勢が出来ていなければ」
どういうことか?
ここに全体として美しい花があるとする。
あなたは日頃からこの世の醜さに苦しんでいて、
その分、美しいものに目がないとする。
この花も、あなたにとっては癒しである。
そんな時、一人の人がやって来て、あなたに言ったとする。
「花弁の一部が黒くなってるよ。この花も完全ではないね」
あなたは何となく気に入らない。
そして、その指摘から目を逸らす。
あなたは、この花の美しい部分だけを見ていたい。
相手が花なら、大して問題ではない。しかし、「霊のお告げ」だったら?
「悪魔は99%の真実に1%の嘘を混ぜる」のだから、あなたは上のような態度を取るわけにはいかない。黒ずんで見える部分にこそ、あり得る「1%」にこそ、目を注がなければならない。(違うのか?)
その私的啓示の中にどんなに「希望」を感じさせる言葉があっても、あなたの視線はそれに吸い付けられてはならない。
目を転じ、「疑問点」の方にこそ視線を向けなければならない。
これは、あなたが一時的にでも「意地悪」なような、「悪趣味」なような人にならなければならないことを意味する。あなたは「粗探し」をする人に似る。
しかし、それは実際、必要である。
「悪魔は99%の真実に1%の嘘を混ぜる」のが本当であれば。
「悪魔は嘘の父」というのが本当であれば。
だから、私は小結論として言う。
そういう「意地悪」なような視線を持たなければ、たとえ何百行読もうが同じである。
イノセントな人
「愛」と聞いて
「はい、それは良いものです」と直ぐに
答え、
「平和」と聞いて
「はい、それは良いものです」と直ぐに
答え、
「寛容」と聞いて
「はい、それは良いものです」と直ぐに
答え、
「自由・平等・友愛」と聞いて
「はい、それは良いものです」と直ぐに答え、
「排他性」と聞いて
「はい、それは悪いものです」と直ぐに答えてしまう人
混合物
学識深く保守的な(と間違って思われている)神父様、このあたりの事について、ひとつ明確な、スッキリとしたコメントをお願いいたします。
先日、左のような表示をしたけれども、「すべての民の御母」も同様である。
つまり、それは一人の同じ人間の内における、また一つの同じ霊の内における、玉石混淆、善悪混淆、真偽混淆である。
現代の教会において「保守的」と思われている神父様方が実は「保守性とモダニズムの奇妙な混合物」であるのと同じく、「すべての民の御母」もそうである。
その「婦人」が言う言葉には、保守的傾向のある、真面目な、良心的な、心の優しい、ナイーブな、そしてイノセントな信者達の心の琴線に触れるものがある。しかしそれは、悪魔がそのような言葉を「散りばめて」いるのである。注意深く読めば、それは「奇妙な混合物」であって、決して「保守的」と言われるべきものではないことに気づくだろう。
しかも、難しさはこれだけではない。
何故なら、聖座自身がこんなことをやっているからだ。
もしあなたが「聖座に対しては信頼あるのみで、それに疑いを向けるなどということがあってはならない」と無邪気に信じるタイプの人なら、「すべての民の御母」の中に「黒い部分」を見る可能性はない。
何故なら、すべての民の御母の問題は、聖母の「共贖性」に関する神学議論などにあるのではなく、一重に、その悪しきエキュメニズムに、一種の宗教グローバリズムにあるからだ。
この問題が聖母に冠されるべき最終的で栄えあるドグマ──「共贖者、仲介者、執りなし手」──の問題であると考えている人は「視線を逸らされて」いるのである。いわば彼らの「心理戦略」に引っ掛けられているのである。
すべての民の御母
悪魔は心理戦のマスターであるということをご存知ですか?
あなたは視線を誘導されています。
聖母が共贖者、仲介者、執りなし手であるなどというのは〈当り前〉である。聖母マリアを「すべての民の御母」と打ち出してみたところで実際はほとんどカトリック信者しか振り向かないのと同様、聖母が共贖者、仲介者、執りなし手であることを教義化してみたところで、実際は既に聖母に目が行っている信者ぐらいしか振り向かないものである。
比較
しかし、それでも(「ほとんど無駄かも知れない」という視野の下にでも)、次のページから、一つの試みとして、「すべての民の御母」と「ベイサイドの聖母」等の言葉を比較してみようと思う。
これは、一般のカトリック信者から見れば、異常な試み、あるいは笑うべき試みだろう。それは分かっている。特に、私がベイサイドを信じる者であること、よりによって比較対照にベイサイドを選ぶことが、多くの人にとっては引っかかることだろう。
しかし少し言わせてもらえば、私にも私なりの理屈(?)があるのであって、それなりの探究の経過というものがあるのであって、時には迷いもあるのであって(注1)、時には私見を修正しなければならないこともあるのである(注2)。だから、少なくとも、ただ恣意的に、気紛れに、自分の気に入る私的啓示を選んでいるというとのは違うと、自分では思っている。
注1)こういうのを引くと、なにか自画自賛的に響いてしまうが、ベイサイドのイエズス様の御言葉だったか、名言がある。「嘲る者は迷いもしない」
注2)例えば私は、一度は否定的に見たシスター・ファウスティナへの私的啓示について、後に見解を改めたのである。参照
そして次に、あなたのことである。
私は、カトリック信者は「習い性」が強いけれども、否、強いが故に、「誰がこれを言っているか」を忘れてただ「言われていること」の真なりや偽なりやのみを見るという技法(?)というのを、もう少し知ってもいいように思う。
また、「私的啓示に必要以上にアクセスするのは考えものだ」というありがちな意見も、私はどうかと思う。何故なら、「私的啓示」(否定されているものも含めて)を検討するということは自分の「信仰」を確かめることになり得るからである。ある啓示が何事か言う、それの真なりや偽なりやを確かめようとすることは即ち私達自身の信仰の形を明確にすることにつながる。「信仰に関する話」ということでは、一平信徒が言うことも、一司祭が言うことも、「聖母」や「イエズス」を名乗る霊が言うことも、はたまた悪魔が天国に強要されて(と主張しつつ)言うことも、左程(全くとは言わない)違わないところがある。つまり、「検討作業」という意味では。検討する「目」にとっては。「孕む問題」はかなり共通するのである。
さっそく次のページから、あなた自身の信仰の形(検討の真の対象は実はこれである)を確かめてみて欲しい。すなわち──
あなたはこれらのどれに Yes と言い、どれに No と言いますか?
──ということである。(訓練になると思いませんか?)
「婦人」の言葉の引用はエンデルレ書店刊『すべての民の御母のメッセージ』から。
「婦人」の絵に禁止マークを付けたり、毒々しい色合いで言葉を紹介したりと、公平でない。しかし、どうも公平になんかしたくない。私の表現の仕方に偏りがあるとしても、あなたは御自分でそれを解除しつつ読むことができる筈である。
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