2013.02.02

カトリック相模原教会と同性愛の牧師さん 2

同性愛に関する教会の言葉の若干
『カトリック教会のカテキズム』より
2357 同性愛とは、同性に対してのみ、もしくはおもに同性に対して性愛を抱く男同士、または女同士の関係を意味します。これは時代や文化の違いによって、きわめて多様な形をとっています。その心理学的原因はまだ十分には解明されていません。これを重大な堕落としている聖書に基づき104 [管理人注1] 、聖伝はつねに、「同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの」105 であると宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背くものです。これは生命を生み出すはずのない性行為です。真の感情的・性的補完性から生じるものではありません。どのような場合であっても、これを認めることはできません。英文
104
創世記19:1-29、ローマ1:24-27、一コリント6:9-10、
一テモテ1:10 参照
105
教理聖省『性倫理の諸問題に関する宣言』8 (loc. cit., 85)
2358 かなりの男性や女性が、同性愛の根強い傾向を持っています。この傾向は、客観的には逸脱ですが、彼らの大部分には試練となっています。したがって、同性愛的な傾向を持つ人々を軽蔑することなく、同情と思いやりの心をもって迎え入れるべきです。不当に差別をしてはなりません。これらの人々は、自分の生活の中で神のみ旨を果たすように、キリスト信者であれば、自分のこの傾向から生じる困難をキリストの十字架の犠牲と結び合わせるように、と呼びかけられているのです。英文
[管理人注1] 英文のカテキズムでは「聖書は同性愛を重大な堕落としている」ではなく「聖書は同性愛の行為を重大な堕落行為としている」となっています。
教理省『同性愛者に関する司牧的配慮について』(1986年)より
同性愛者に特有な傾向それ自体は罪ではないが、それは多かれ少なかれ、それが内蔵している道徳的な悪へと人を牽引する強力な傾向である。それ故、その傾向それ自体をも、一つの客観的な障碍と看做さなければならない。
Although the particular inclination of the homosexual person is not a sin, it is a more or less strong tendency ordered toward an intrinsic moral evil; and thus the inclination itself must be seen as an objective disorder.(参照
つまり、「行為」は紛れもなく罪である。「傾向」を持っていると云うだけでは罪とはならない。しかし傾向を「肯定」することは出来ない。傾向を肯定したら行為を否定する理由はなくなるわけだから。
聖書より
ここにおいて神は、かれらを恥ずべき欲に打ちまかされた。すなわち、女は自然の関係を、自然にもとった関係に変え、男もまた、女との自然の関係をすてて、たがいに情欲をもやし、男は男とけがらわしいことをおこなって、その迷いに値する報いを身に受けた。
ローマ人への手紙 1:26-27
不正の人は神の国を嗣げないことを、あなたたちは知らないのか。思い誤るな、淫行するものも、偶像崇拝者も、姦通するものも、男娼も、男色するものも、泥棒も、貪欲な人も、酒のみも、ざんげんする人も、掠奪する人も、神の国を嗣がない。
コリント人への前の手紙 6:9-10
つい聖書を最後に持って来てしまったのは、私も現代人の一人だからです。つまり、「人権」に敏感になり、「人格の尊厳、人格の尊厳」と繰り返され、すっかりナイーブになってしまった現代の私達には、聖パウロのこれらの言葉は、聞いていてどこか居心地の悪いものになってしまっています。つまり、誰だって、悪気のない同性愛の人達を目の前に置いて「けがらわしい」という言葉を言えるものではありませんから。
その「居心地の悪さ」に従って自分の考えを「同性愛者に罪はない」と云うものに変更することをしない私は、「不正直者」なのですか?
私はそうは思いません。私は「人間の浅い目」「人間の智慧の浅さ」というものを考える者だからです。「私達人間には、私達のそのような “素朴な感じ方” を以てしては識ることの出来ない多くのものがある筈である」と考える者だからです。
つまり、「本人達を目の前にしてなかなかそれを言い出す気になれない」と云う事と、「神の教えに照らしてそれは罪か否か」の問題は、飽くまで別であります。そして私は、「罪か否か」に関しては、聖書を支持します。
聖書を「研究する」と称する学者達は、聖パウロの上のような言葉を、「それはパウロの “人間的な考え” に過ぎない。パウロも人の子、“時代の制約” を受けていたのだ。パウロの中には “律法主義” の名残りがあったのだ」などと言いそうだけれども、私はそれを支持しません。「他の箇所はいざ知らず、この点、聖パウロの筆は聖霊によって導かれていなかったのだ」と断ずることは、傲慢な人以外、出来る事ではないと信じるからです。
生得的?
話は変わりますが、素朴な人達はこう考えるかも知れません。「同性愛は生得的なものなんじゃないの? だったら、罪ではないのじゃないかしら。」
しかしカテキズムは「その心理学的原因はまだ十分には解明されていません」と言っています。その通りでしょう。そして「心理学的」のみならず「生物学的」にも、その原因はまだ十分には解明されていないでしょう。だから、少なくとも現段階では、「生得的」と断ずることは出来ないでしょう。
そして、もう一つ考えなければならない事があります。それは、或る人の或る「傾向」なり「性向」なりが確かに「生得的」であるという事があったとしても、「生得的」であると云う事だけを以て、それが全く晴れやかな気持ちで受け容れ可能なものになるかと云えば、そうではないだろう、と云う事です。
どういう事かと云えば、私達はカトリック教徒です、「生得的」と聞いて真先に思い浮かべなければならないものがあります。「原罪」です。それは言ってみれば「生得的」なものです。人祖から受け継がれたものだから。私達がこの世に生まれる時に避け難く携えているものだから。
けれども私達は、原罪について、「それは生得的なものだから、それについては何もすべき事はない、気にすることはない、人間の “ありのまま” として、おおらかに両腕を拡げて受け容れればいいだけだ」とは言いません。
私達は天主様に教えられて、こう言います──「原罪は、私達が信仰の恵みを受けて、洗礼の秘蹟によって赦されなければならない」と。
そしてその後に、おそらく次のように続けられます──「洗礼の秘蹟を授かった後も、原罪の影響から来る “罪の傾向” が私達の霊魂の奥に根強く残るものだから、私達は神の助けを頂きつつ、それとよく戦って行かなければならない」と。
だから、これだけ見ても、「生得的でありさえすれば、それは一も二もなく受け容れるられるべきだ」と云う主張は成り立ちそうにありません。
勿論、以上はカトリックの話です。そして私達はカトリック教徒です。
しかし、相模原教会は「カトリック」ですか?
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