2013.02.06

労務者風

この記事に関する弁明、最下段
画 像
(削除しました)
浜崎眞実
画 像
(削除しました)
本柳孝司
「神父様を呼び捨てとは」
はい、すいません。しかし、一目で「神父様」とは分からないもので。
神父様方、出来得れば、私達があなたを何処かでお見受けした時、一目で「ああ、この人は私達に天主様のことを伝えてくれる人なんだ」と分かる恰好をして居て下さいませんか。あなた方が天主様の使徒であることを示す記章、或いはユニフォームを、ちゃんと身に着けて居てくれませんか。
無理ですか。信条に反しますか。変な信条!
本柳神父「壁を壊す」(同性愛問題について)(2000年)
浜崎神父「共同宣教司牧の試み失敗と成功」(記事の後半)(2004年)
お二方とも「日本カトリック部落差別人権委員会」に所属しておられるようです。
II 社会の真っ只中にあって
4回
6月19日
性をどの様に理解し意味づけるのか
森一弘師
(上の浜崎神父の述懐を載せている真生会館系のサイト一つの目次から)
新作映画情報
2013年2月8日公開 社会の中心で、性を叫ぶ (監修:カト〇〇〇〇会)
なんてね。
またふざけました。ごめんなさい。
しかし、「司祭」って何ですか。その役割とは。本来の役割とは
上の浜崎神父の述懐を読んで、私は、現代の「司祭」と呼ばれる人が内に持つ「混乱」を、混乱が一杯入った一つの壷の中を、覗き込んだ様な思いがしました。
しかし、彼も、日本の教会のあるべき姿について、彼の主観に於ては確かに偽りなく、思い悩んではいたのだろう、とは思います。(私の気のいい錯覚でなければ。)
で、彼は、また彼らは、「出口」を見つけたのでしょうか?
そうではないようです。彼らは「従来の聖書理解」(本柳神父)などと云った言葉を抱え続けたまま(それでは「出口」は無理)、結局は、 “手応え” を求め、 “やり甲斐” を求めて、「第三世界」に飛ぶのでしょう。
弁 明
(後日の加筆)
(写真は削除しましたが)この記事に関し、「ふざけた書き方が嫌い。聖職者に対する尊敬がない」と思う信者さんも多いのかも知れません。しかし、私としては、そう思う前に少しは、これらの神父様方の在り方に困惑して欲しい。
1.司祭服や修道服と云うのは、それらの人達にとって殆ど「本質的」に重要である、と私は考えます。
2.何ですか、「司祭」と「社会の真っ只中」の取り合わせって。
これらの事は、私の中では、三つ先の「聖ヴィアンネ」と題した記事に関連します。
「愛」だの「平和」だのと云っても、現世に余りに目を注ぎ過ぎる司祭は「司祭としての本来の役割」を見失うと思います。一部の司祭達は、もう、見失って久しい。
一見ふざけてはいても、この記事で言いたかったのはそういう事です。
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