2013.06.24

まやかしの謙遜

以上のようなものをいろいろ見て来ると、ふと「シスター・ルチアは本当にカルメル会に入ったのか?」とさえ疑いたくなります。
その「いろいろ」の中の一つは、私達は〈ドロテア会のシスター・ルチアの顔と連続性を持った顔を持ったカルメル会の修道服を着たシスター・ルチア〉の写真をただの一枚も持っていない、ということです。これ自体驚くべきことです。そしてその代りに私達は「シスター・ルチア、カルメル会修練女、1949年」という文字の振られた替え玉の写真を見せられているのです。
しかし、それにも拘わらず、それら全てに拘わらず、幾つかの点から見て、シスター・ルチアがカルメル会に入ったこと自体は確かなようです。
  • 1926年から1938年までシスター・ルチアの霊的指導司祭であったアパリシオ神父様が、1950年と1951年の二度、シスター・ルチアに会ったと言っていること。参照文字化け?
  • フエンテス神父様(彼はドロテア会時代の彼女のことは知らないようですが)の有名な1957年12月26日のインタビューにおけるシスター・ルチアの言葉の質。参照
  • マーク・フェロウズの本の第32章  Sister Lucia Enters Carmel (1948)
..など。
だから、この点に関しては安心(?)していいでしょう。
因みに、上の二番目の参照記事は、フエンテス神父様が1957年のシスター・ルチアに会った時に見たものを、こう伝えています。
「彼女は非常に悲しんでおり、非常に青ざめそしてやつれていました」。
・・・ひどく重荷を負っていたからです。
さて、目を転じて偽シスター・ルチアのことです。彼女が「シスター・ルチア」として世界におおっぴらにデビューした1967年5月13日に於けるその挙動を、「ルチア修女の手記」が次のように伝えています。
ルチアとのもっとも有名な面会者は、一九六七年五月十三日、百万人の巡礼者と共にファチマを訪れたパウロ六世教皇である。ルチアはその日、教皇の指図に従って、コインブラのカルメル会修道院を出て、ファチマへ来た。当時のファチマの司教ヨハネ・ベナンシオは、教皇からルチアが生家を訪ねる許しを受けていた。しかしルチアは、教皇がファチマを去るとすぐ、コインブラのカルメル会修道院へ戻るように願った。謙遜な彼女は、教皇と共に受けた百万人の歓迎にたいへん驚ろかされ、司教のもとに数時間留まったばかりで、人目をさけて修道院に帰った。
ヴィットリオ・ガバッッソ/志村辰弥 共訳編
『ファチマの聖母の啓示 ─ ルチア修女の手記』p.249
アハハです。シスター・ルチアの替え玉はシスター・ルチアの肉親に会うことができなかった、ただそれだけのことです。
まやかしの謙遜
まあ、この “面構え” を見ることですね。
以下、過去に書いたことの焼き直しですが、再確認の意味で。
え、自分で決めたの?( ̄△ ̄;)
シスター・ルチアは「第三の秘密」の公開時期に関して「1960年」という年号を出していました。「1960年に」ということであるのか「1960年以降に」ということであるのか少し判然としないところがあるけれど、ここではそれよりも「何故それは1960年でなければならないのか/ならなかったのか」と問われた時の二人のシスター・ルチアの答え方を見てみます。
昔のシスター・ルチア
1946年にバルタス聖堂参事会員が幻視者になぜ1960年まで待つ必要があるのかと尋ねたとき、シスター・ルシアは彼にダ・シルヴァ司教がいる前で、「聖母がそう望んでおられるからです」と答えた。
「聖母がそう望んでおられるから」
私は、これはものすごく「当り前」の「まっとうな」答えだと思います。
「答え方」ではなく。シスター・ルチアの頭から出たことではなく。
つまり、これはただ「真実」を映した言葉であるに過ぎません。
と云うのは、その公開時期は人類にとって非常に重要でしょうから。
人類の運命を左右するほどのものでしょうから。
人間が決められることではないに違いありません。
「そんなことは私が決められることではありません」というのが、昔のシスター・ルチアにとって真であり、あまりに当然のことであり、そしてそれ故、もし「1960年」というものがメッセージの中に出て来たならば、それは間違いなく天国由来なのです。聖母の御口から出たことなのです。
それが、ほとんど誰が考えても思い当たる「道理」と云うものです。
ところが・・・
近年のシスター・ルチア
ベルトーネ大司教は、「なぜ、一九六〇年以降にと期限をつけたのですか。マリアがそうお決めになったのですか」と尋ねた。するとシスター・ルチアは、「いいえ、マリアではありません。わたしが決めました。なぜかといえば、わたしの直観で、一九六〇以前には理解されない、そのあとになれば分かってもらえると思ったからです。今では、とてもよく理解することができます。わたしは、見たことを書いたまでです。解釈するのはわたしではなく、教皇様です」と答えた。
教理省『ファチマ 第三の秘密』(2000年)
中央協議会版 p.28
私は「へ〜、そんな大事なことを。自分で決めたの」と独りごちます。
本当に「謙遜」なのかな?
「わたしは、見たことを書いたまでです。解釈するのはわたしではなく、教皇様です」
同上
謙遜ですねー。自分は出しゃばらないというわけだね。
でも、「公開時期に関しては自分で決めた」と言った人だよね。
“CALLS” の中でも──
It is not an interpretation of the Message; this pertains to God’s Church.
“Calls” from the Message of Fatima
「この本の目的とするところはメッセージの解釈ではありません。解釈は神の教会のお仕事です」という意味だと思います。謙遜ですねー。
しかし、本当はそうとも限りません。多くのカトリック信者は上のような言葉に簡単に「謙遜」を感じますが、本当はそうとも限りません。上のような姿勢は、悪くすると「郵便配達夫の気楽さ」をもたらすからです。
真の預言者はあまり気楽な受け渡し方はしないに違いありません。「自分が神から直接に受け、教皇や教会に伝えた神の言葉が、教皇や教会によってどのように受け取られるか」──これもある意味「自分の責任の範囲内」と看做すでしょう。
カルロス: 教皇様が第三の秘密を公開することはあり得るでしょうか?(Can the Pope reveal the Third Secret?)
シスター・ルチア: 教皇様がそうすることを選択されれば、それを公開するということはあり得るでしょう。でも私は、教皇様に、そうなさらないようにとアドバイス申し上げます。もし教皇様が公開することを選択されても、私は彼に大きなご思慮を払うようにとアドバイス申し上げます。教皇様は慎重でいらっしゃらなければなりません。
(The Pope can reveal it if he chooses to, but I advise him not to. If he chooses to, I advise great prudence. He must be prudent.)
Two Hours with Sister Lucia
by Carlos Evaristo
ふーん、教皇様にアドバイス申し上げちゃうんだぁ。
しかも「公開しないように」と。
因みに、上のインタビューは1992年に行なわれました。
その後、2000年に、教理省が『ファチマ 第三の秘密』で第三の秘密を「公開」しました。
翌2001年、「シスター・ルチア」はバチカン・インフォメーション・サービスの取材に応じて、教理省の『ファチマ 第三の秘密』に確証を与えながら、「これで全てが公開されました。隠されていることはもう何もありません」と言いました。参照
しかし、私達は『ファチマ 第三の秘密』を読みました。あんな内容で、何故あなたは1992年に「私は教皇様に公開なさらないようにとアドバイス申し上げます。教皇様には大きな御思慮が必要です」と言ったのですか?
結論: あなたは嘘つきです。
シスター・ルチア、教皇様にアドバイスするの図
教皇様は胸の内の懸念を打ち明けられ、「シスター・ルチア」は “アドバイス” 申し上げています。間違いなく、そんな感じ。
いいですよ、教皇様にアドバイスしたって。実力があるなら。
シエナの聖カタリナみたいに、真の預言者なら。
しかし、この人は詐称者なのですから、話になりません。
これでこのシリーズを終わることにしますが、最後に一言。
一部で「本当のシスター・ルチアは1950年代の終わりに殺されたのだろう」という推測が出ていますが、私はそうは思いません。参考
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