2013.09.16

私たちの先輩たちは知っていた

私達は、たいてい凡庸であって、ぼんやり生きています。考える葦などと、あまり偉そうなことは言えません。私達の多くは、あまり明敏でなく、受動的であり、ほとんど「時代の産物」であるだけです。
私達が戦後生まれであれば、私達が育って来た時代というのは「ユダヤの陰謀についての研究が抑制(あるいは封殺)されて来た時代」と言えるでしょう。しかし、私達はたいてい、そう思っていません、そう気づいていません。それで、いわゆる「陰謀論」なるものも、ここ最近になって急に興って来たもののように錯覚しているのではないでしょうか。
しかし、気づけば、大戦前の私達の先輩は、それについてこのように研究していたのです。
以下は、国会図書館デジタルコレクションで公開されている書籍です。と云っても、私はこれらの書籍の一々を紹介したいのではありません(閲覧のためのリンクは付けるけれども)。これらの発行年と書名をざっと見てもらいたいだけです。
1900年
秘密結社(リギョル)閲覧
1923年
フリーメーソンと世界革命(ウイヒテル)閲覧
1924年
猶太人の陰謀と排日問題(勝井辰純)閲覧
猶太人の世界征略運動(酒井勝軍)閲覧
自由平等友愛と猶太問題(藤原信孝)閲覧
1927年
世界の毒素 : 猶太民族の大陰謀と大和民族の警醒(諏訪部一之輔)閲覧
1928年
共産党の黒幕猶太民族の大隠謀を曝露す : マツソン秘密結社の正体と我国の現状(立正愛国社出版部)閲覧
1933年
フリーメーソン秘密結社に就いて(四王天延孝)閲覧
1937年
支那を毒するユダヤ系英国人(仲木貞一)閲覧
支那事変とユダヤ人の陰謀(安谷宗虔)閲覧
ユダヤ人の陰謀を曝く(大野慎)閲覧
コミンテルンの正体は何か : 猶太民族の世界政策(諏訪部一之輔)閲覧
世界の革命的動乱と秘密結社の活動(竜門会)閲覧
英・米・露に於けるユダヤ人の策動(国際思想研究所)閲覧
1938年
アジアを攪乱する猶太人(井東憲)閲覧
日本を狙ふユダヤ財閥の陰謀(竹居半二)閲覧
1939年
覆面のわが敵ユダの挑戦(神田計三)閲覧
ユダヤ秘密結社の真相 : 其の世界民族征服運動(百々巳之助)閲覧
猶太禍(西宮三城)閲覧
マソン結社の組織と秘密(J.トウールマンタン)閲覧
世界攪乱の陰謀 : 猶太民族は世界を征覇するや?(児玉信夫)閲覧
1941年
英国を支配するユダヤ力(鹿島健)閲覧
怖るべきユダヤ民族の正体(江島四郎)閲覧
第二次世界大戦と世界新秩序(百々巳之助)閲覧
1943年
日本とユダヤの決戦(岩佐圭奘)閲覧
猶太民族と世界制覇(国際政経学会)閲覧
ユダヤ問題を中心とせる思想国防(山崎能達)閲覧
『国際秘密力とフリー・メーソンリー』解説 : 敵国政府の背後を暴露す(国際政経学会調査部)閲覧
世界の猶太勢力と秘密結社の解剖(国際政経学会)閲覧
リストのトップの『秘密結社』の著者はカトリックの神父様です。
明治時代に来日したパリ外国宣教会のフランス人カトリック宣教師、アルフレッド・リギョール神父(François-Alfred-Désiré Ligneul, 一八四七〜一九二二年) PDF
1847-1922 フランスの宣教師。1847年9月1日生まれ。明治13年(1880)パリ外国宣教会から派遣されて来日。カトリックの月刊誌「天主之番兵」主幹をへて27年「声」編集長。20年代後半「憂国の真理」などをあらわして井上哲次郎のキリスト教排撃に反駁。明治カトリック界有数の著述家として知られた。大正元年離日。1922年7月25日死去。74歳。 参照
1880(明治13)年に渡来したリギョールは、中央知識層への布教開始のため活発な文筆活動を展開した。来日5年後の1885(明治18)年、カトリック総合誌『公教万報』を改組・改題して月刊『天主の番兵』の主幹となり、体系的に教理や教会史を解説するとともに欧米の新知識を伝え、あるいはカトリシズムの立場から時評を加えて知識層にカトリックの感化を及ぼした。著作活動の最盛期といわれる1896(明治29)年から1902(明治35)年においては毎年数点もしくはそれ以上の著述をものした。リギョールは、日本カトリック教会における最大の著作家であると同時に、日本の知識層にカトリックを移植した最大の功労者として注目されるべきである。 参照
とにかくこのように、私達の先輩達は少なくとも大正期から「ユダヤ(猶太)」やら「フリーメーソン(マッソン秘密結社)」やらについてこれだけの本を出していたのです。しかも、上はその書名を一目見て分かるものだけを挙げたので、書名には顕われていないが同内容のものを加えれば、リストはこの何倍かになる筈です。
出版物には著作権保護期間がありますから、ごく近年のものはこのライブラリーに載っていなくて当然です。しかし、おそらく第二次世界大戦後、このような方向の研究は、ただでさえ盛んとは言えなかったのに、ますます下火になったでしょう。何故なら、ドイツに於ける所謂「ホロコースト」があったからです。それによって、昔の人が「ユダヤ人が一つの問題であることを誰も否定できない」参照と言えたものが、そう言えなくなった、そのように非常に言いづらくなった。「ユダヤ問題」を口にすることは御法度、一つのタブーとなった。何か言えばすぐに「ユダヤ人差別」とレッテル付けされるようになった。ユダヤ圧力団体の働きもあり。──というところでしょう。
だから、もし「ホロコースト」とそれに引き続くそのような動きがなかったら、研究はもう少し進んでいたかも知れません。
ちなみに、「ホロコースト」とは彼らの悪魔教側からの命名です。「燔祭」(捧げもの)という意味ですから。
世界の毒素 : 猶太民族の大陰謀と大和民族の警醒1927年閲覧
ユダヤ民族は、憐れむべき民族である。
ユダヤ民族は、怖るべき民族である。
この二つの定義のうち、日本人はいずれを採るかと云えば、悲しむべきことにその大部分が前者の左袒さたん者である。それ程日本人は、ユダヤ問題に対して迂遠であった、否、足元に火の附いた今日ですらも、まだまだ正面からユダヤ問題を見究めようとする人士が少ない程無関心なのである。
覆面のわが敵ユダの挑戦1939年閲覧
今でも同様です。
1991年(←911以前)
しかしまた、世の中には慧眼の人達というのも居るものです。
私はと云えば、911以前、この世の中にこのような事象があるなどとは、まったく文字通り「夢にも」思っていませんでしたが。
タルムードの抜粋
一、神より生れたるは唯だユダヤ人のみ、其の他の人類は悪魔の子なり。
一、人間は動物より高等なるが如く、ユダヤ人は人間より高等なり。若し此の世にユダヤ人なかりせば、如何なる幸福も、赫々たる太陽の光線も、風雨もなく、人類は到底生存し能わざるなり。
一、永久に生存する価値あるものは、独りユダヤ人のみにして、他の人類は驢馬〔ロバ〕にも如かず。
一、ユダヤ人は人類と名づくる権利あるも、不浄の神より生じたる非ユダヤ人は豚(ゴイ)と命名せんのみ。
一、エホバ(上帝)は、非ユダヤ人を憎み給う程、驢馬や犬の如きものを憎み給わず。
一、非ユダヤ人が善事を行い、慈善を施さば之れを罪と認め彼等を呪うべし、之れ彼等は誇らんが為に斯る行いを為すが故なり。
一、我等は如何なる援助も非ユダヤ人に乞うべからず。我等の利益の為には彼等に害を与うべし。非ユダヤ人は地上に在る幸福を占むる権利なし。何故ならば彼等唯だ動物なればなり。
動物を放逐し或いは殺戮し得る如く、我等は非ユダヤ人を逐い之を殺し、又彼等の財物を利用し得るものなり。即ちユダヤ人ならざる者の所有物は吾等の紛失したるものにして、実際の所有者はユダヤ人なるが故に、ユダヤ人は先ず第一に之を所有せざるべからず。
一、若し非ユダヤ人が、ユダヤ人より些細なる物を盗むときは、之を死刑に処するは当然なり。然れどもユダヤ人は欲する儘に非ユダヤ人の所有物を奪うも自由なり。是れ「汝の隣人に悪を施すこと勿れ」とあるも、特に「非ユダヤ人に悪を施す勿れ」と明記しあらざればなり。若し非ユダヤ人にして穴に墜つる者あるも、之を引き上ぐるに及ばず、其の穴に階梯あらば之を取除けよ。若し傍らに石あらば、拾いてこれを穴に投ぜよ。
一、非ユダヤ人の財産を管理することはユダヤ人の権利なり。同じくユダヤ人は非ユダヤ人を殺生する権利を有す。「殺害する勿れ」とは、実は希来〔=きら?=綺羅?〕の子なるユダヤ人を指すものにして、非ユダヤ人を意味するものにあらず、而して之を行うには、責任上の危険少なき時を好〔よ〕しとす。非ユダヤ人を殺害するには、彼等の中最も高等なる者を選ぶべし。
一、非ユダヤ人の生命は我等の掌中にあり。特に彼等の黄金は我等の所有物なり。
一、非ユダヤ人を殺すに当り、キリスト教徒中の地位高き者を選ぶべし。
一、非ユダヤ人の血を流す者はエホバの神に生贄を捧ぐる者なり。
一、故意にユダヤ人を殺害せる非ユダヤ人は恰も全世界を滅亡せしめたる如き罪あり。
これ以上は、何にも付け加へて説明する必要はない。
何故ならば、有らゆる解釈はユダヤ聖書タルムード中より引出した恐ろしき情景の意味を、唯だ弱むる許〔ばか〕りだからである。
世界革命之裏面1929年閲覧
私達は、このような文書を読んで、所謂「民族差別」(或る民族全体に対するもの)に戻るわけにはいきませんし、また、確かに巨大な悪を為しているユダヤ人のうちの悪徳な者らをさえ「憎悪」することはできません。
「父よ、彼等は為す所を知らざる者なれば、之を赦し給え」
けれど、そうかと云って、私達、特にカトリック聖職者達が、彼らの策謀について少しも研究せず、依って、それについて何らの現実感も持っていないとすれば、それは教会にとってものすごくマイナスな事だと思います。
ほんの少し研究するだけで、本当に少しだけそうすることで、たとえば正平協の司祭達だって、人権派の、人間主義(humanism)の司祭達だって、自分達の歩みを大いに顧みることになると思うのですが、違うのかな。
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