2013.11.08

浦川和三郎司教様編著『基督信者宝鑑』(昭和5年)より

起 床

何事にも、始めを善くすると云うは極めて大切である。「一日の計は晨に在り」と云う諺さえある位だから、一日を聖[たっと]く過したいと思う基督信者は、第一に起床を善くせねばならぬ。

人が眠って居る間は、呼吸こそ中止[とま]らないが、目は閉じ、耳も塞がり、五体は動かず、全く死んで墓に横[よこたわ]って居るのも同然で、起きて床を離れる時は、丁度甦って其墓を跳ね出る様なものである。されば基督信者の起床は是非とも主が甦って御墓を出られた時の如くであらねばならぬ。

早く起きる

主は朝早く甦り給うた。三日目の朝になると、未[ま]だ夜もほのぼのと明け渡らない中[うち]にサッサと御墓を出て了[しま]われた。大きな石を蓋した上に、封印を施し、番兵までも付けてあったけれども、その御甦りを沮[とゞ]めることは出来なかった。

是は基督信者に取って、何よりも立派な聖鑑[みかゞみ]ではあるまいか。総て朝寝は、身体にも霊魂にも、百の害はあっても一の益も無いものだ。身体はその為に漸く懦弱[だじゃく]に流れ、些[すこし]の困難にも堪え難くなる。霊魂は尚更だ。もう時間が無いから朝の祈祷もそこそこにして学校へ駈出さねばならぬ。仕事に取掛らねばならぬ。黙想も出来なければ、ミサも拝聴されない。聖寵を戴く方法は一つも取って置けない。従って誘惑の嵐が捲き起っても、之を防ぐだけの力が無い。一度負けたら二度も負ける。二度のは三度と始終負けに負けて、終には救霊までも失うような始末に立至らぬにも限らない。

悪魔は其処[そこ]をチャンと見て居るから、寝間[ねま=寝室]には始終番兵となり、眼瞼には重い石蓋をし、夜具には封印を施さんばかりにして、成るだけ遅くまで寝[やす]ませようとする。夢々その手に乗ってはならぬ。時が来たらば愚図愚図せずに、床には火でも付いたかの様に、がっばと跳ね起きるが可[よ]い。なるほどそれは辛い。霜の朝、雪の日などは尚更ら辛い。床の中は煖[ぬ]く煖くとして何とも言えぬ心持がするのに、外にはバラバラと霰が降って居る。寒い風がヒゥヒゥと唸って居る。未だ暗い。いま暫く休んで居たいな、早く起きたって仕様がないよ等とそんな時には能[よ]く手前勝手な口実が出て来るものである。それには一切耳を傾けないで、その辛い所は主に献げる今日の御初穂だと思って、サッサと起き出ねばならぬ。

身を慎む

主がお甦りになった後で、二位の天使が天降って墓の蓋石を取り外した。その衣は雪の如く真白で、その顔は太陽の如く照り輝いて居たものだから、番兵等[たち]は肝を潰してその場にどうと倒れて了った。

基督信者が床を離れる時も主が御覧になり、守護の天使も付添って居て下さる。たとえ見る人が居ないにせよ、成るべく肌を露さないよう、服を着畢ってからでなければ、人前にも出ないよう注意せねばならぬ。謹慎を身に纏うと云うのは基督信者の何時も何時も心掛けて欲しい所で、この謹慎の衣こそ主の聖意を喜ばせ、天使・聖人等の目を楽しませ、悪魔には肝を潰させ、我身の上にも豊かな天の祝福を呼び降すものである。

信心を以て起きる

終に主は甦り給うてからと云うものは、もう全く現世[このよ]の御方では無かった。その思もその望も、その心も全く天に在す御父の方へと馳せ昇って居るのであった。

同じく基督信者たる者は、目が醒めると直に身も心も主に献げ奉らねばならぬ。自分の心を献げて主を想い、自分の口を献げてイエズス、マリアの聖名を呼びつゝ、肩衣なりメダイなりを恭しく接吻し、自分の手を献げて十字架の印をなし、跪いて次の祈祷を誦える。

─ 主よ、我伏して主を礼拝み、心の底より主を愛し、今日まで辱[かたじけの]うせし数々の御恩、殊に昨夜我を無事に護り給いし御恵を感謝し奉る。

─ 主よ、今日の思、言、行、痛苦は総てイエズス、マリアの思、言、行、痛苦に合せて主に献げ奉る。なお今日の中に蒙らるゝだけの贖宥は悉く蒙りたきものと望み奉る。

─ 今日は如何様の事ありとも、罪を犯して主に背くまじと決心し奉る。願わくば御手を伸べて我を護り給え。聖母マリアよ、御蔭の下に我を庇い給え。守護の天使、保護の聖人よ、我を助け給え。

終に聖母の原罪の汚れなき御やどりを祝し、その御伝達[おとりつぎ]を以て清浄の徳を求めて戴くが為、天使祝詞を三度誦え、一度毎に次の祈を加える。

あゝマリアよ、御身の汚れなき御やどりによりて、我肉身を清からしめ、我霊魂を聖ならしめ給え。アメン。

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