2013.11.08

浦川和三郎司教様編著『基督信者宝鑑』(昭和5年)より

お化粧

化粧に気を奪られるのは宜しくない

朝起きて顔を洗うや、鏡に向って身じまいをするのは婦女子の常習[ならい]である。それに就て基督信者たるものは如何なる心掛であらねばなるまいか。幾ら顔に墨が付いて居ようと、衣物が垢光りして居ようと、そんな事には少しも頓着しない婦人も困ったものだし、朝から晩まで鏡と睨競[にらみくら]をして居るハイカラ娘も始末に負えたものではない。要は身分相応にすると云うに在る。だが何方[どちら]かと謂えば、基督信者たる者は、お化粧なんかに余り気を奪[と]らるべきではない。何[なん]ぼ容姿ばかり美しくても、萬一霊魂が汚[けが]れ果てゝ居ては、主の御目に何の価値があろう。之に反して至極醜い、人中に出ると笑い殺される位の不器量*に生れ付いて居るにしても、心行[こゝろゆき]は気高く、胸の中は清く、明に[あきらかに=明るく]澄み渡り、少しの罪の汚点[けがれ]すら見当らぬと云う人だったら、如何に主の御寵愛を忝[かたじけの]うするであろうか。主も容姿の美しい人を幸福[さいわい]だとは曰[い]わないで、「心の清き人は福[さいわい]なる哉」と讃め給うたではないか。「美しい容姿は自分にも危険だし、人の為にも躓となるから、わざわざ白粉[おしろい]などこてこてと塗たくって、持ちもせぬ美しさを作り出してはならぬ。たとえ天然に備わって居るのでも、余り手入れなんか為[し]ないで、成るべくそれを隠した方が可[よ]い」と有名なテルツリアヌスは曰って居る。して其言を文字通りに実行した聖人も少くはない。

* 管理人
「人中に出ると笑い殺される位の不器量」
まぁ怒るな。昔の男なこんななのだ。しかし悪気はないのだ。

例えば聖女アンゼラ・メリシー[アンジェラ・メリチ]の如きは謂ゆる花の顔、月の眉と云う方であったが、然し心行は尚更ら美しく、自分の容姿が如何[どう]なって居るやら、そんな事は気にも掛けないで、専ら信心の務に身を委ねて居たものである。然るに十歳の頃であった。友達の一人が「アンゼラさんの頭髪[かみ]の美しいこと! 後では屹と立止まって眺める人が出て来て、立派な結婚が出来ますよ」と何心なく云った。尋常の少女だと飛び上って嬉しがるのだけれども、アンゼラは流石に聖女だ、それを聞くや非常に驚いて「私はイエズス様の外に朋友も要らない。良人[おっと]も持たない」と即座に決心し、それから五月蝿い縁談など持ち込まれない予防をして置かんものと、煙突の煤を湯の中に沸[たぎ]らした奴で、頭髪をゴシゴシ洗った。光沢も何も失せて了[しま]うまで頻りに洗った。そればかりか今迄に倍して厳しく断食をするやら、身を打懲らすやらして、沢々[つやつや]しい前の姿は何処へやら、瘠せこけた見すぼらしい小娘となり、以てその清浄潔白の美しい白百合を無事に保たれたと云うことである。

この聖女の御手本に倣って、容姿を打壊して了うが可いと云うのではない。然し肉体美を拝まんばかりにして居る世の中に在って、聖女が僅に十歳の小娘でありながら、専ら心の清さ、魂の美さを求められたのを、切[せ]めてもの感心して欲しいと言いたいのだ。感心すると共に、容姿の美さよりは、寧ろ心の美さを、寄る年波にも荒れ果てず、病の風にも窶[やつ]れず、死んでも消え失せない心の美さを望みもし、求めもして下さい、と言いたいのである。

兎に角、美しい花の姿を与えられたら、それが却って仇となり、罪を犯し、心を汚[けが]して救霊までも失う様な事になりはしまいかと恐るべきである。その反対に人なみ劣った容姿を持って生れ出たならば、それこそ一方ならぬ御恵を忝うしたのだ、誘惑に対する堅固な楯を与えられたのだと厚く感謝しなければならぬ。余り野暮な事を申す様だが、然し考えて見ると、世を挙[こぞ]って豪奢華美に流れ、只管[ひたすら]肉体美を崇拝せる羅馬[ローマ]帝国に在って、臙脂[べに]や、白粉や、演劇や、遊芸やと云うものを一切遠ざけて、専ら福音的質素を実践躬行[じっせんきゅうこう]し、因って以て羅馬の悪風を一掃するに至ったのは、初代教会の信者では無かったか。当今[たゞいま]我国の腐敗し方と来ては羅馬のそれに優りはしても劣りはしない位。さすればこの滔々たる汚俗を改めて純然たる基督教風と化すのは、我等基督信者の責任であると謂わなければならぬ。それに持って来て自分から世の風習に染まり、お化粧等に浮身を窶[やつ]する様では、どうしてその重大な責任を全うすることが出来よう。

服装上の注意

次に服装の話であるが、我等の肉体は霊魂ほどの価値を持たない。昨日は虚無だった。明日はもう腐って一塊の土となるべきものだ。無暗に之を飾り立てる必要の無いことは申す迄もあるまい。然しながら肉体だって実は聖霊の住み給う神殿である。屡々主の籠り在す聖櫃となり、不滅の霊魂もその中に宿って居るのだから、十分之を尊重し、之に身分相応な服装をさせたからとて少しも不都合はない。

衣服は絹布[きぬもの]にせよ綿布[もめんもの]にせよ、兎に角、清潔であらねばならぬ。幾ら絹布だって、破れ下って居るとか、汗臭い、垢光がして居るとか云うのは、本人の心の自堕落な、締[しまり]の無い証拠なので、信者たるものゝ最も慎まねばならぬ所である。さらばと云って余り華美[はでやか]な着飾[きかざり]をするのも宜しくない。

我等は洗礼を授かる時、悪魔の栄華を棄て、主の後から十字架を担いで進むと約束して居る。たとえ世の人が如何に華美な着飾をして居ても、自分までがそれに曳かれる訳は無いのである。聖ベルナルドは嘗て妹に書を送って、「美服を纏うよりも、美徳を着けて、主の御心に適うように努めよ。すべて衣服は余り価貴[ねだか]くもなければ、お粗末にもなく(聖人の一家は貴族であった)身分相応で、質素なのが可い。価貴い服を欲しがるのは、虚栄心から出て来るもので、虚栄心の奴隷となるのはまだまだ世間を愛して居る証拠なのよ」と申された。

交際上、人中に出なければならぬ時でも、自分は質素を旨とする基督信者たることを夢にも忘れず、真[まこと]の神に仕え奉る人と、否る人とは何処か異る点があると云うことを世の人に示さなければならぬ。聖モニカは少女時代に華美な服を与えられたことがあった。生れて一度も父母の命に背いたことの無いモニカも、是だけは喜んで従おうとはしない。やはり当時信者の少女等[たち]が纏うて居た質素な白い服に満足して居るのであったとか。彼女は眉目よりも心を、身の飾よりも心の飾を重じた。聖ペトロが婦人等を戒めて「其飾は表面の縮らし髪、金の飾環[かざりわ]、身に着けたる衣服に在らずして、貞淑、謹慎なる精神の変らざるに在るべし。是こそは神の御前に価貴[あたいたか]きものなれ」(ペトロ前三ノ三)と申されたのを、そのまゝ実行しようと心掛けたのである。

要するに我等は十字架を担いで主の御後に従うべき者、飽まで虚栄の害を認めて、それに囚われない様、努めなければならぬ。虚栄に囚われた婦女子が身飾[みかざり]に費す時間は大したものだ。一寸外に出るにも、服は彼[あれ]にしようか此[これ]にしようかと長い間思案の首を投げる。やっと決定が付いて着更え終ってからも、幾度となく前を見、後を眺め、化粧鏡の前に立っては、顔の頭髪のと撫でつ擦りつして独りでホクホクと感心する。外を歩く中にも偶々人に立って眺められると、もうもう嬉しくて堪らないが、若しや自分よりも容貌の優れた、服装の華美[はでやか]な人でも見たものなら、忽ち無念の唇を噛締ると云う塩梅。斯うなっては実に困ったものではないか。

若しそれ学を修め、業を習い、信心の勤を励み、将来は修道院に引蘢るか、或は賢母、良妻として世に立つかするだけの用意をして置くべき少女にして、益[ため]にもならぬ身飾にその貴重な時間を潰すようでは、実にその前途が案じられる。他日審判の庭に立って、虚栄の為に空しく費した時日の計算書を請求されたら何と答えることが出来よう。「花の如き少女時代は何をして過した?…汝に与えて置いた物はどうした? …金銭は?…智慧は?…心は?…生命は?…何の為に使い潰した?…此[こゝ]に差出せ。汝の事業[わざ]を」と言われたら、どんなに狼狽するだろうか。事業を! 事業を! 衣服の外に何の事業を持って居る?…然し衣服が主の尊前に何程の価値を有するだろう…。永遠の世界に何程の光輝となるであろう? …「善く身飾をした良い娘だよ」と来世で讃められることがあるだろうか。

其上虚栄は霊魂の救霊に頗る剣呑である。「少女の心から虚栄を取り去らば、忽ちにして天使ともされる」と或神学者は言った。実際装飾[おつくり]に憂身をやつする婦女子は高尚な思想、清い望、美しい感情などを起し得るものではない。肉体あって霊魂あるを知らず、衣服あって徳行あるを思わず、たゞ肉体を崇め、美服を拝んで居る。斯くて何時の間にか肉の奴隷となり、邪慾の穴に落ち込み、不浄の淵に溺れるに至るのは火を見るよりも明瞭[あきらか]である。

虚栄は斯くまで怖るべきものである。基督信者たる者は務めて之を抑え、衣服でも髪飾りでも、年齢と身分に応じるとは云いながら、成るべくは質素を旨とするように心掛けねばならぬ。若しや虚栄心に揺[ゆすぶ]られる様なことがある時は、鏡の前に立つ代りに、十字架の下に拝跪[ひざまず]いたら、容易にその誘いを防ぐことが出来よう。

実に十字架の上には、我等の師表と仰ぐべき御主[おんあるじ]が在す。「世は禍なる哉。我は世の為にも祈らず」とまで宣うた御主が在す。その御主が十字架の上から「汝はどうしてそんなに衣服やお化粧やを気にするのだ。私の弟子になろうと思う者は十字架を担ぐべきではないか」と叫び給うのが聴えないだろうか。頭には茨を冠り、顔は唾で汚れ、全身隙間もなく傷つき破れて、世の人が肉を撫で擦り、身を飾りたがる虚栄の罪を償い給うのが見えないだろうか。それを見、それを聴いては、迚[とて]も衣服の、お化粧の、と言って居られたものではあるまい。

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