2013.11.08

浦川和三郎司教様編著『基督信者宝鑑』(昭和5年)より

雲雀
 
雲雀

ヒバリのさえずり(Youtube

朝の祈祷

朝の祈祷の必要

起きて顔を洗い、身装[みじまい]を済ましたら、何はさて措き、先ず朝の祈祷を誦えなければならぬ。朝の祈祷は我等が主に対して尽すべき第一の義務である。子女[こども]は毎朝、父母の前へ出てお辞儀をする。お辞儀もしない子女は、躾が悪いと賎しめられる。今我等は天に御父を持って居る。如何なる父も及ばぬ慈愛を傾けて我等を愛し給う御父を持って居る。毎朝この御父の前へ出て、朝の祈祷を誦えてお辞儀をするのは、子女たる我等が当然の義務ではあるまいか。躾の善い基督信者が、どうして一朝でも之を怠ってなろう。

主は我等の父たると共にまた君である。君に対して相当の礼を尽すのは臣下たる者の本分である。してその君に対して尽すべき相当の礼とは、礼拝したり、感謝したり、罪の赦しや、必要の恩恵[めぐみ]やを願ったりすることで、祈祷と云うは畢竟この四つの義務を果すに外ならぬ。然し日の中[うち]には人が来る、用事が起る、野に山に稼ぎ廻る、台所に立ち働くと云う様に、迚[とて]もゆっくり祈祷なんかして居る余裕がない。だから責めて朝、未[ま]だ人も来ない、仕事にも取掛らない前に祈祷をして、臣下の道を尽すのである。

斯の如く祈祷は、人が主に対して服従・尊敬・愛慕等の情を表すが為に捧げ奉る貢の様なもので、必ずしも朝に限ると云う訳ではない。然しながら朝の祈祷を怠る程ならば、迚も日の中に一口の祈祷でも誦える筈がない。従って全く人の人たる義務を怠り、終には犬猫も同然になって了[しま]わぬとも限らない。

仏国がアルゼリアを征伐せる頃、敵の捕虜となった一人の士官があった。一日[あるひ]どうした都合だったか、番卒が件の士官に向って、「クリスチャンの犬め」と怒鳴りつけた。犬と言われて士官は怒るまいことか、火の様になって「なに俺を犬だと! 貴様の捕虜とこそはなって居るが、貴様と同じく立派な人間様だ」と云った。番卒はジロジロとその士官を見詰め、如何にも軽蔑[さげす]んだ句調で「お前が人間様ッて、善くまァそんな口幅ったい事が言われたものだ。考えて見い。俺の捕虜となってから、もう六ヶ月にもなるだろう。それに*たゞの一度でも祈祷をするのを見たことがない。幾ら人間様だと威張ったからって、それではどうして人間様には勿体ない。犬じゃ、犬じゃ」と答えたとか。成る程そう言われて見れば一言もない。自分を造り、贖い、護り、助けて下さる真[まこと]の神を明らかに認めて居ながら朝夕の祈祷もしない様では、犬猫と何の違った所があるだろう。たゞ地面ばかりを眺め、一度でも頭を擡[もた]げて天を仰ごうともしない様な人は、どうしても霊魂を持たない、神も識らない犬猫同然だとしか思われまい。

* それに: 現代の私達の「それなのに」というニュアンスなのかも知れませんね。

朝の祈祷の利益

朝の祈祷の利益は多いものである。一日の中に我等の為すべき事は沢山ある。従って何時も主に助けて、導いて、強めて、照らして、慰めて戴かねばならぬ。朝の祈祷を以て其等[それら]のお恵を願って置くのである。

一日の中には随分と艱難・苦労にも出遇[でっくわ]せねばならぬ。朝の祈祷を以て予め之を総ての慰安[なぐさめ]の神なる主の御手に献げて置くのだ。ゲッセマニの園に於ける主の御鑑[みかがみ]に倣い、「若し能うべくばこの艱難・苦労を私より遠ざけ給え。然し私の意の儘ではない、御意[みこゝろ]のまゝになし給え」と祈ったら、屹とまた主の如く奮って之を引受け、勇ましく之に耐え得る力を恵まれるに極[きま]って居る。

何事もすべて主の為だと思って之を為せば、少からぬ功徳になる事は既に言って置いた通りである。格別の取柄もない、尋常一様の行為でも、心掛一つでは案外立派な宝を産むに至るものだ。是非とも恭しく跪いて、朝の祈祷を誦え、一日を主に献げて、その尋常一様の行為に美しい黄金[おうごん]の実を結ばせる様にせねばならぬ。

終に一日の中には危険を遠けねばならぬ。誘惑に打克たねばならぬ。過失[あやまち]も改め、徳も磨かねばならぬ。然し我等は極く極く虚弱[かよわ]い者で、聖寵に頼らなくては何一つ遣り了[おゝ]せるものではない。そこで朝の祈祷を以てその聖寵を求めて置くのである。

見事な薔薇の鉢植を友達から貰い受け、朝晩之に水を遣り、大切に育てゝ居た少女があった。蕾は段々大きくなって、終に朱の唇を開いた。美しい立派な花となった。然るに或朝、些[ち]と常よりも忙[せわ]しかった為に水を遣るのをすっかり忘れた。生憎其日は太陽がカンカンと照り付けたものだから堪らない。夕方往って見ると、その立派な薔薇の花も葉もグンニャリと首を垂れて、全く見られたものではない。少女は泣き出したくなった。今更の様に朝の仕損じを後悔したが、もう後の御祭、どうすることも出来なかったと云うことである。

我等の霊魂もこの薔薇の鉢植見た様なもので、之に美しい徳の花を咲かせるには、毎朝毎晩、怠らず、聖寵の水を遣らなければならぬ。然るにその聖寵の水を遣る如露は祈祷であるから、一朝でもこの祈祷の如露を手に執ることを忘れると忽ち霊魂は悪魔の熱気に当てられて、グンニャリと萎れて了わぬにも限らない。兎に角、聖寵の水が無くては徳の花は咲かない。して聖寵の水は祈祷の如露に由らなくては注がれないものだと云うことを忘れてはならぬ。

朝の祈祷の誦え方

こんな塩梅で朝の祈祷を怠りてならないことは誰しも承知して居る。だが誦えは誦えても、善く誦えなくては格別ためにならない。然し善く誦えるとは如何に誦えることだろうか。それをご存知ない方が多い様である。朝の祈祷を善く誦えるには、

─ 起きて顔を洗ったら直ぐに誦えねばならぬ。牛馬の世話をする前に、煙草を吹かし、新聞に目を曝[さら]す前に先ず主に御挨拶を申し、其日のお初穂を献げるが至当ではあるまいか。後で後でと差延ばして居ると、思わず時間が立つ、人が来る、用件が起るして、已むを得ずもこの大切な勤行[つとめ]を怠る様になるものである。

─ 十字架か聖母の御像かの前に跪いて誦えねばならぬ。聖堂に於て誦えれば最も妙[みょう*]だ。服を着ながら、路を歩きながら、火に煖[あた]りながら、或は仕事片手に主と御話を交すのは些[ち]と失礼であろう。

* 妙(みょう)[名・形動] 1. いうにいわれぬほどすぐれていること。きわめてよいこと。また、そのさま。

─ 徐々[そろそろ]誦えねばならぬ。御威光限りなき主の尊前に罷出て御挨拶申上げるのであるのに自分ながら何を言ってるのか分らない位に、口早に誦えては寧ろ失礼であろう。そんなに急いで始めから終りまで誦えるよりは、半分でも、三分一でも、徐々[そろそろ]、念を入れて誦えた方が、主の御意[みこゝろ]にも適えば自分の益[ため]にもなる。

─ 気を付けて誦えねばならぬ。毎日毎日同じ文句を繰返すのだから、終にはそれが習慣になって格別意を留めなくなる。気は八方に散り乱れる。色々の拙[つま]らない想像は八鱈に頭の中を跳ね廻る。唇は動いた、声も聞えたが、霊魂は何[なん]にも言って居ない。霊魂が何にも言わなくては、幾ら口の先でベラベラと喋り立てゝも祈祷にはならぬ。切[せ]めては祈祷の詞[ことば]に注意するか、或は其詞の意義[いみ]を思うか、若くは御父の事やら、イエズスの事やら、その御降誕なり、御受難なり、御聖体なりを考えつゝ恭しく申上げるかしなければならぬ。口先ばかりの祈祷は、主の御耳には届かないものである。

─ 前以て意向[こゝろあて]を定めて誦えねばならぬ。子女の病を癒して戴くため、試験に及第する為、遠方へ出掛けた良人[おっと]が無事に帰宅する様、愛する父母の霊魂が早く煉獄から救い出される様にと思って祈る時は、誰しも熱心になる、心など散りはしない。然らば朝の祈祷を誦えるにも、誰某[だれそれ]のために祈る、何の御恵を願う、この罪を避け、あの徳を修める力を乞求めると云う様に、確[しか]と意向を定めて祈祷を始めたら、余程心の散り乱れるのを防ぐことが出来る。

なお祈祷を始める前に一寸心を静めて、主の尊前に在ることを念い出すのも随分助けになる。雲雀と云う鳥は地上に居ては鳴くものではない。鳴く時は必ず天に舞い上る。うらうらと霞んだ春の大空に、チゝロチゝロと声さえ美しく囀りながら高く高く天に登って行く。何時までも登って行く。登れるだけ登ってから、いよいよ銀鈴の様な声で、チゝロチゝロと歌うのだが、それを聞くと全く祈祷でもして居るかの様。暫く歌ってから、萬物の造主たる神に賛美歌を献げ得たのが嬉しいと言わんばかりに、スウと降りて来て、静かに草の中に隠れる。

祈祷をする時は、この雲雀の真似をせねばならぬ。暫くの間、地を離れ、側の人や、身辺の事を忘れ、用件も何も放って了い、心を高く高く天に上げて、主が彼所に在す、私の言葉にお耳を傾け下さる、私は今主に向って御話をするのだ。斯う考えて祈祷を始めると、余程心が引締って来て、無暗に散り乱れる憂いは無いものである。

要するに朝の祈祷の目的は、(1)主を礼拝して今まで辱[かたじけの]うせし聖恩[みめぐみ]を感謝する。(2)自分の思・望・言・行を献げる。(3)罪を避け、徳を修めるに要する聖寵を乞い求める。この三つであるから、心が非常に散り乱れて、何を誦えたか自分ながら分らなかったと云う様な時は、この三つの目的に従って主祷文、天使祝詞、栄誦を各三篇づゝでも熱心に誦えて、之を補うことにするが可[よ]いかと思う。

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