2013.11.08

浦川和三郎司教様編著『基督信者宝鑑』(昭和5年)より

折角ミサ聖祭に与りながら、自分は主の尊前に居るのだとも思わず、一口の祈祷さえ唱えるのではなく、退屈そうに欠伸をしたり、脇見をしたり、笑うやら、談話をするやら、時には悪戯をして他の信心を妨げるやらする者すら無いではない。かかる人は全く信仰を持たない無心の見物人にも劣っていると言わなければならぬ。

ミサ拝聴の方法

ミサ拝聴者の色々

ミサ聖祭は十字架の祭と同じ祭である。所でカルワリオの頂き、十字架の周囲には悪徒、無心の見物人、門弟衆と云う様に、三様の人々が突っ立って、御臨終の光景を打眺めたものであるが、ミサ聖祭にも同じく三様の人が与るのである。

悪徒は主を十字架に磔けた上で、「もし神の子ならば十字架より降れ、他人を救った者だ。我身も救ったら可[よ]かろう」等と様々の悪言・暴言を浴せかけた。ミサ聖祭に与る信者の中[うち]には、まさかこの尊い御祭を嘲ったり、主が聖体の中に籠り在すことを疑ったり、罪を抱きながら聖体を拝領したりして、謂わば主を責め殺す様な怖ろしい悪徒は居るまい。居て貰ってもならぬ。然し時としてはそう云う不心得の人間が居ないにも限らない。

悪徒の外に、見るも痛々しき主の御死去を平気で見物せる人々もカルワリオには多く見られた。聖堂内にもそんな真似をする信者が少くはない。折角ミサ聖祭に与りながら、自分は主の尊前に居るのだとも思わず、一口の祈祷さえ誦えるのではなく、退屈そうに欠伸をしたり、胡視[わきみ]をしたり、笑うやら、談話をするやら、時には悪戯をして他の信心を妨げるやらする者すら無いではない。かゝる人は全く信仰を持たない無心の見物人にも劣って居ると謂わなければならぬ。

然しカルワリオには悪徒、無心の見物人の外に、少数ながらも親愛の門弟衆が見受けられた。中にも聖母マリアは涙に咽びつゝ十字架の傍近く佇み給うのであった。その御立振舞を仰視[あおぎみ]ると、どんな風にしてミサ聖祭に与るべきかと云うことが自[おのずか]ら悟られる。看給え。聖母はぴたりと十字架にすり寄り、眸[ひとみ]を据えて主を見詰め、聖言[みことば]にせよ、御悲嘆にせよ、微かな御息遣いまでも一つとして聴き落すまいと、御耳を欹て給うのである。聖母の御目には周囲のものは一切消え失せて、たゞ見えるのは御主[おんあるじ]、最愛の御主のみであった。

ミサ聖祭に与る時は、何人[だれ]しも斯うなって欲しいものである。成るべく祭壇の近くへ進み寄り、周囲のものは何によらず総て打ち忘れて、たゞ一心に主を眺め、専ら主のことを思い、我身も主と合せて御父に献げ奉る様にせねばならぬ。「司祭がミサを献げる時、天は開け、数多の天使は祭壇の右左に天降って恭しく拝聴し給う」と聖ヨハネ金口は言って居られる。実際この聖人がミサを行われる時、天使等[たち]が数多群り降ってお手伝いし給うのを見たと、弟子の聖ニル修院長は語って居る。兎に角ミサ聖祭は、神の羔[こひつじ]、神自らが献げられ給う御祭である。如何ほど熱心に、静寂[こゝろしずか]に、注意して拝聴せねばならぬかと云うことは申す迄も無い所であろう。

今ミサを拝聴する方法は種々ある。祈祷文を手にして、司祭の誦える祈祷、行う儀式に従って自分もその祈祷を誦えて行くのは、普通一般に行われる所である。若しその誦える祈祷の意味を理解[わか]り、その儀式の訳を呑み込んで居てこの方法を用いると、余程信心を煖[あたゝ]めるの助となる。其他ミサの中にロザリオを爪繰るか、主の御受難を黙想するか、或は何等かの祈祷を誦えるかしても差閊[さしつかえ]はない。たゞ余りミサ聖祭に縁の遠い、例えば聖人伝やら、旧約聖書やらの如き歴史物等を読むのは宜しくない。ミサは公式の祈祷であるから、ミサの中には口祷なり念祷なり、すべて何かの祈祷を誦うべきものだと云うことだけは忘れてならぬ。然し種々の方法の中でミサ聖祭の目的にもしっくり嵌り、主の聖意にも大いに適うのが一つある。人が主に対して背負って居る礼拝、感謝、贖罪、求恩の四大義務を尽しつゝ拝聴するのがそれで、今左にその方法を示すことにする。

ミサの始め

司祭が祭壇の下に立って、告白の祈祷を誦える時は、主がゲッセマニの園に於て、血の汗を絞りつゝ祈り給うたことを懐[おも]う。犯せし罪を悔い悲んで赦を願う。併て十分の尊敬と熱い熱い信仰とを以て、この聖祭に与り奉ることの出来るよう、聖霊の御恵と聖母の御助とを請求める。それからミサを四つに区分して、礼拝、感謝、贖罪、求恩の四大義務を果すようにする。

入祭文から聖福音まで、礼拝

神は天地萬物の造創主、御威光限りなき御主にて在す。たとえ諸々の天使聖人、否天使聖人の元后たる聖母マリアが、その天使聖人等を悉く牽き従え、心を尽し力を尽して尊び敬い給うても、到底その限りなき御威光に釣合うだけの礼拝を献げ奉るには足りない。況して賎しい罪深い我等に於ては尚更らそうである。たゞ相当にこの神を尊び拝むことの出来るのは神にして人、人にして神たるイエズスのみである。されば今イエズスが人類に代って御身を祭壇上に犠牲となし、以て御父を尊び拝み給うのだから、共々に深く謙って、自分はこの広大無辺の御稜威[みいつ]の前には有っても無きが如きものだと思い、心も容[かたち]も恭しく聖母と共に申上げねばならぬ。

あゝ天主、我等は主を唯一の君、無上の御主と恭しく礼拝し奉る。我等を無より造り出して、生命も、才智も、能力までも、財産までも恵み給いし全能の神と平伏[ひれふ]して尊び拝み奉る。主の限りなき御稜威に対しては限りなき尊敬を尽さゞるべからず。然し我等は卑しく哀れなる罪人にて、到底かゝる事の出来る柄にあらず。幸に御子イエズス・キリストが、今祭壇の上に深く自ら謙りて主を尊び拝み給えば、その尊敬、礼拝をば我等の為、又一般人類の為に謹みて御前に献げ奉る。主よ、御心に適えるこの御子を顧み給え。我等も御子と共に主の御稜威の前に謙り、同じ心、同じ感情となりて主を伏し拝み奉る。御子が我等に代りて主を一心に愛し、深き礼拝と心よりの尊敬とを献げ給えるを見て、我等は限りなく喜び奉る。願わくば我等の謙遜、礼拝をば御子の謙遜、礼拝に合せて、之を聖母の汚なき御手より受け納め給え。あゝ聖母よ。我等を助けて、一心に主を尊び拝み奉らしめ給え。

暫く書[ほん]を閉じて、心の中に今の祈祷を幾度も幾度も繰返し、主がこの聖祭に由って限りなき光栄を受けさせ給うことを聖母と共に喜んで申上げる。

あゝ天主、主はこの聖祭によりて限りなき光栄を得させ給えば、我等は深く満足に思い、心の底より躍り喜び奉る。

必ずしも本書の文句をそのまゝ用いるには及ばない。信心の情が燃え立つに従い、自ずと胸に湧き起る語を自由に使って礼拝するが可い。たゞ肝要なのは、心を慎み、飽まで自分の虚無を認めて、深く深く謙遜することで、主を礼拝し奉るのに、是より適当な方法は無いのである。

聖福音から聖体奉挙まで、感謝

我等が生れ落ちてから今日まで辱[かたじけの]うせしお恵は、浜の真砂よりも秋の夜の空に輝く星よりも遙に多く、何とてお礼の申上げ様も無い次第。聖母と共に「全能にて在す者、我に大事を成し給えり」(ルカ一ノ四九)と叫ばずには居られない。是からにしても幾何[どれだけ]のお恵を蒙るのであろうか。斯る大恩に酬い奉ると云うは到底我等の力の及ぶ所ではない。たゞ祭壇上に天降り給えるイエズス・キリストに縋るより外はない。今イエズスは我等に代って御父に感謝し給えば、諸々の天使・聖人、殊に聖母マリアと心を合せ、声を揃えて申上げよう。

主よ、我等は主が人類一般に降し給いし御恵と、我等一人ずつに施し給いし御情との雨露に潤いながら、謹みて御前に出で奉る。主の御情は限りなく、その御恵は量りなし。我等は何を以て此の御情に報い、この御恵を感謝するを得べき。たゞ我等が聖母マリアと心を合せ、敢えて司祭の手を以て尊前[みまえ]に献げ奉るこの聖き御体、この価貴[あたいたか]き御血、この汚れなき神の羔をば、聊か恩謝のしるし迄に受納め給え。この犠牲は価限りなく在す上に、大いに主の御意[みこゝろ]にも適い給えば、我等が今まで忝[かたじけの]うせし、又今後忝うすべき数々の御恵に報い奉るには、是のみにても十分なりと信ず。諸々の天使・聖人、別けても慈愛[いつくしみ]の御母マリアよ。我等と共に主に感謝し給え。この聖祭のみならず、今日、全世界に執行わるゝのまでも悉く合せて之を主の尊前に献げ、我等の忝うせし数限りなき御恵を感謝し給え。

こんな塩梅に心の底から感謝し奉ると、主はどんなに喜んで受納め給うであろうか。殊に献げる犠牲には限りなき価値はあるし、必ず御満足に思召し給うに相違ない。で愈々心を煖[あたゝ]め、情を燃やし、天国の天使・聖人、分けても自分が平生尊び敬って居る聖人等を頼み、共々に感謝して戴くことにする。

親愛なる保護の聖人等よ、我等に代りて主に感謝し給え。生きては主の大恩を忘れず、死しても天国に於て、主の御情を一心に讃美し奉りたきは我等の一生の願なり。主が我等の願を顧み給う様、又御子イエズスがこの祭壇の上に犠牲となりて、我等の為に献げ給う感謝をば、快く受納め給うよう祈り給え。

幾度も幾度も繰返す。たとえ主の御恵は限りなきにもせよ、この聖祭によって十分に感謝し得るものと信じ、いよいよ熱心に繰返さねばならぬ。

聖体奉挙から聖体拝領まで、贖罪

我等が今日まで犯せし程の罪を数えて見たらば、主に対して如何なる債務を背負って居るかゞ分る。一つの大罪ですら、之を主の正義の秤に掛けると、諸々の天使・聖人、その天使・聖人の元后たる聖母マリアのお立てになった功徳よりも遙に重い。だから主の義怒[みいかり]を宥め奉るには、神にして又人たるイエズスが十字架の上にて、その価限りなき御血を漓[した]め尽し給わねばならぬのであった。然るにミサ聖祭に於ては、この貴い御血が正しく天主の尊前に献げられ、我等の為に哀憐[あわれみ]と罪の赦免[ゆるし]とを祈って止まないのである。嘗て十字架の上より、「彼等はその為すべき所を知らざるによりて赦し給え」と御父に向って叫び給うたイエズスは、今もこの祭壇の上から同じ語[ことば]を反復[くりかえ]して、我等の為にお叫びになる。たとえ我等の声が罪に汚れて、拙[つたな]く聞づらいにもせよ、この清々しい御声に合せて、罪の赦を叫んだものなら、情深い御父の事ではあるし、どうしてもお聴容れ下さらぬ訳には行かぬ。なお聖母マリアが、十字架の下に佇んで血の涙を絞らせ給うた事を思い、誠意[まごころ]から罪を悔い悲みつゝ深く謙って申上げよう。

あゝ天主、我等は幾度も御恵を忘れ、御憐に背き、罪に罪を重ねたる謀反人なり。今御足の下に平伏して、心の底より悔み悲み奉る。御子イエズスが深く自ら謙りて献げ給うこの尊き聖祭をば、我罪の償として受納め給え。主よ、このイエズスの限りなき功徳、このイエズスの貴き御血、このイエズス御自身、神にして人、人にして神たる御身を以て忝くも我等の為に犠牲となり給える此イエズス御自身をば、聖母の清き御涙と共に、馨しき供物として、恭しく尊前に献げ奉る。

今イエズスは祭壇の上に犠牲となりて我等の為に伝達[とりつ]ぎ、その価貴き御血を注ぎて罪の宥恕[ゆるし]を請求め給えば、我等もその清々しき御血の声に我等の濁り返れる声を合せて、偏に御憐を祈り奉る。願わくは我等が犯しゝ数限りなき罪は言う迄もなく、世の総ての罪までも悉く赦し給え。

主よ、イエズスの御血は主に向って憐を叫び給えば、我等も心より罪を悔い悲み、胸を打ちつゝ共々に主の御憐を叫び奉る。たとい我等の涙には感動され給わぬにせよ、御子の飲泣[すゝりなき]と聖母の切なる御願とを顧み給え。イエズスは十字架の上にて、人類一般の為に罪の赦を請受け給いしに、いかで我等の為にもこの祭壇の上にて御赦を得[え][もと]めさせ給わざる事のあるべき。主よ、この貴き御血と、主の愛し給える聖母マリアの御祈祷[おんいのり]とに頼りて、罪は悉く赦さるゝものと我等は堅く信じ奉る。我等は身を終るまで罪を悔い悲まんと欲す。何とぞ我等の罪を赦し給え。世の哀れなる罪人にも疾く其罪を悔い悛めて、赦を蒙るに至らしめ給え。

暫く書を閉じ、幾度も幾度も痛悔の情を絞って、右の祈祷を繰返す。聖母の汚れなき御手に托[あず]けて、之を主の尊前に献げ奉る。さすれば罪の赦でも主の御憐でも屹と与えられる。少しの疑いもない。

あゝ聖母よ、我等の偽りなき痛悔を照覧し給え。我等はこの聖祭の功徳によりて罪を悉く償わんと欲す。何とぞ聖ペトロの如く泣き、聖女マダレナの如く悲み慟[なげ]き、大罪人より立帰りて大聖人となりし人々の如く、一心に痛悔するの御恵を乞求め給え。

主の尊前に畏まっていよいよ悔み悲む。たとえ如何なる罪人たりとも、誠意[まごころ]から悔い悛める気にさえなれば、主はこの祭の功徳によって必ずその罪の鎖をスパリと切って棄て、告白場に駈け付けて赦を蒙るの恵を得さして下さる。既にその罪を赦された人には、是によってますますその償を減じて下さるのである。

聖体拝領から終まで、求恩

司祭が聖体を拝領する時、自分も拝領すること出来なければ、せめて熱い望を以て霊的拝領をなす。その為にはイエズスが嬰児[おさなご]となって、新たに祭壇の上に生れ給うたのを、聖母の御手より拝領したてまつると想像するか、或は今しも十字架より下され給うた御体を聖母が親[みずか]ら運んで来て、自分の心に葬り給うと想像するか、或は単に聖体拝領を熱く熱く望むかすれば足りる。

既に霊的拝領を為したら、我心に在すイエズスを打眺め、唯今イエズスは私の為に祈り給うよ、と頼母[たのも]しく思い、必要の聖寵を願う。心を寛くせねばならぬ。神の御子がお祈り下さるのだ。若し聖母マリアが自分の祈祷を伝達いで、之を主の尊前にお捧げ下さると云うならば、人は如何に頼母しく思うであろうか。況して天地萬物の君たるイエズスが、その貴い御血を献げてお伝達ぎ下さるのだから、如何なるお恵でも、又幾何[どれだけ]でもお願いするが可い。主は御力と云い御宝と云い限りなく在せば、人が限りある身を以て、幾程[どれほど]お願い申したからとて、御手の空虚[むなし]くなり給う気遣いはないものである。

主よ、我等は数限りなき罪を犯して御意[みこゝろ]に背き奉りし大罪人なれば、到底主の賜を辱うするに堪えず。尊前に進み出づる顔すら無きものなり。たゞ最愛の御子イエズスの御顔を顧み給え。この祭壇の上に犠牲[いけにえ]となりて、その貴き御血、その二つとなき御生命を献げて、我等の為に祈り給う御子イエズスの御顔を顧み給え。この御子の力ある祈祷を聞き容れて、救霊を全うするに要する聖寵を恵み給え。我等は弱く貧く、主の助なきに於ては、一つの善すら行い得ず、一つの悪すら避くること能わざれば、何とぞ我等を憐み給え。罪の赦と終を全うする聖寵とを恵み給え。主よ、御子の力ある祈祷と、その限りなき功徳とによりて我等に己を識らしめ給え。主を心より愛し、徳の途を勇ましく進みて、終には天晴の聖人ともなるを得しめ給え。

異端、異教の人々は真の道に立戻り、罪人は悔い悛め、聖会はますます栄えに栄えて、四海波穏かに、人々皆に主の平和を楽しましめ給え。煉獄に苦む霊魂をも憐み給え。このミサ聖祭の功徳によりて、彼[か]の苦しき獄舎を全く空虚となし給え。終に生ける人を残らず憐み、この物哀しき涙の谷を化して麗しき楽園たらしめ、現世[このよ]に於ては諸共に主を敬い愛し奉り、後天国に於て、千代に八千代に御光栄[みさかえ]を謳うに至らしめ給え。

疑わず懼れず、自分の為、父母兄弟、朋友、恩ある人、仇敵の為にも、霊魂上の恵は勿論肉身上の幸福[さいわい]迄も一切之を願う。聖会が其難を免れて無事息災なる様、日本帝国が益々栄えて、皇室には豊かな天の祝福が降る様、殊に罪人は心を改め、異教者は一日も早く真理の光を認める様に祈るが可い。我等の祈祷はもうイエズスの祈祷である。何を願ったからとて、聴き容れられぬ筈があろうか。

ミサが終ったら、この聖会に与るの幸福[さいわい]を忝うせし御恵を感謝する。ミサの中に胡視[わきみ]をしたり、心を散したりして、主に礼を失う様な事があったらば痛悔して赦を願う。今こそミサの功徳を十分に蒙ったのだから、それに由って自分の職務を完全に果すべく決心してその為に要する御助を祈る。終にカルワリオを下るかの様な心持になって、静かに聖堂を出て業に就くことゝする。

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