2013.11.08

浦川和三郎司教様編著『基督信者宝鑑』(昭和5年)より

夕の祈祷

恭しく誦える

日は暮れた、いよいよ夕の祈祷を誦うべき時となった。朝目が醒めると、真先に主を思ったのだから、夜に入って目を閉じようとする時も、同じく主を思う筈ではあるまいか。一日の中[うち]に、百の禍を遁して戴き、千の御恵を与えられたのだから、謹んで御礼を申述べるのも、当然ではあるまいか。罪も犯さなかったとは言われまい。御赦を願わねばならぬ。今夜閉じた目が開[あ]かる時は、或はもう恐ろしい主の御裁きの廷[にわ]に立って居る時であるかも計られぬ。我身を主にお托[あず]けして置く必要があるまいか。実に夕の祈祷は、一日の終りに天の御父の前へ出て、最後の御挨拶を申上げるのだ。其日に辱[かたじけの]うした御恵を感謝するのだ。謙って罪の赦を求め、併せて自分の霊魂を情の御手にお托けするのだ。斯う考えると、夕の祈祷は朝の祈祷にも劣らず大切である。一晩でも怠りてはならぬ。

夕の祈祷はたゞ怠りてならないばかりか、また善く誦えなければならぬ。僅か十五分足らずの祈祷である。それにべたりと据り込んで、ふらふらと居眠りながら誦えるとか、床に這入[はい]って横臥[ねころ]んだまゝ申上げるとか云うのは、主に対して失礼であろう。なるべくは跪いて、身も心も恭しく誦えなければならぬ。余り疲れた時などは、全部を誦えるには及ばぬ。半分でも、四分一でも可[よ]いが、唯だ慎んで熱心に誦える事にせねばならぬ。

是は仏国[フランス]での話であるが、何とか云う県会議員と連れ立って旅行せし人があった。或る田舎町に着いて旅館に上った時はもう大分遅かった。一寸した田舎旅館なので、空間[あきま]が一つしかない。床を二つ並べて寝まなければならぬ。疲れて居たものだから、某[なにがし]は友には挨拶もしないで、そこそこに寝んで了[しま]った。議員は何かこつこつと書き付けて居たが、突然目を挙げて某を見ながら、「どうしたんですか? もうお寝み? 夕のお祈祷は?…貴下[あなた]こそ立派なカトリック信者だと私は信じて居たのに、そんなにお祈祷もしないで、お寝みになるとは、全く犬の様ぢゃありませんか」と遠慮なく見咎めた。某はムッとして、「はい、私は朝も晩も、きちんと御祈祷は致します。一日でも怠りた覚えはない。唯今もやっと終った所です。恐らく貴下よりも長く祈って居る積りですよ」と云った。議員は中々負けて居ない。「何ですッて? そんなに軟[やわらか]い寝床にもぐりこみ、頭巾を被り、頭は枕に打付けて居て、それでお祈祷なすったんだと? 拙宅にお訪ね下さる時は、この私にでも脱帽、直立の姿勢で敬意を表し、丁寧に御挨拶なさいましょう。私がさあどうぞ、と申さない中[うち]は椅子にもお掛けにならず、帽子もお被りになりますまい。それに以て来て神様に対しては何の御遠慮もなさらぬとは余りぢゃありませんか。御存じで無いんですか。きちんと跪いて、神様の限りなき御威光に釣合うだけの姿勢で以て一回の主祷文を誦えた方が、そんなに寝そべって無作法きわまる態度をして長い間祈るよりも優[ま]しだと云うことは?」斯う言ってから自分は恭しく跪いて、静かに十字架の印をなし、十分間ばかりも熱心に祈祷をした。某はそれを見て大いに感じ、自分の無作法を深く愧[は]じたと云うことである。

家族一緒に祈る

夕の祈祷は成るべく家族一同、声を揃えて誦えることにして欲しいものである。熱心な信者の家庭では、一日の労働を終えて、家族一同が楽しく団欒して夕飯を済し、其上で聖福音書なり、聖人伝なりの二三頁も読み、いよいよ床に就くと云う前には、皆十字架の下に跪き、一緒に声を合せて夕の祈祷を誦える。而もその祈祷は父か母かゞ一同の先に立って申上げることもあれば、小さな子供の愛らしい声を先導に、皆が和[あわ]せて誦えることもある。天の御父は幼児の片語[かたこと]には極めて甘い方だから、子供を先に立てた祈祷は、殊更ら喜んでお聴容れ下さるのである。

斯うして一緒に主を礼拝し、一緒に御恵を感謝し、一緒に罪の赦を願い、夜の御保護を求め、憂うるもの、病める者、他行[よそゆき]せし者、死せる者の為に、心を合せて祈ると、守護の天使は必ずそれを受取って、主の尊前に進めて下さる。「若し汝等の中[うち]二人地上にて同意せば、何事を願うとも、天に在す我父より賜わるべし。蓋し我名を以てに二三人相集まれる所には、われ其中に在り」(マテオ一八ノ一九)と主はお約束になった。実に共同の祈祷ほど主の御耳に届き易いものはないのである。

其上、一同主の尊前に跪いて祈祷を申上げると、お互が知らず識らずの中に、尊敬、愛慕の念を増して来る。父母が恭しく跪いて熱心に祈る様を見て、子供は自然とそれに感化されて、善く祈る様になる。兄弟姉妹も毎晩一緒に列んで、一つ心、一つ口で祈祷を申上げるので、何時の間にか相敬い、相愛し、相赦す。居眠っても直ぐに揺り起して貰える。祈祷の文なんかもわざわざ学ばなくとも、何時とはなしに覚えて了う。

仏国の有名なカトリック文士ルイ・ウォイヨが羅馬[ローマ]に滞在して居た頃、一夕[あるゆうべ]知人の宅を訪れた。彼此する中[うち]に夕の祈祷の時となった。家族は一同集って来た。「貴方も御一緒に如何です?」と奥さんがウォイヨを案内した。宗教も何も放って居た頃だったので、ウォイヨの為にその案内は余り有難いものではなかった。ウォイヨは後で其時の事を述懐して斯う曰[い]って居る。「私は不平たらたらで跪いた。然しイエズス様は御祈祷の為に集った人の中には自分も居ると云う御約束に従い、私等の中にも御入来[ごじゅらい]になった。私が居たものだから、同情に得[え][た]えないで、お立退きにならなかったのだ。折角の機会を無益にしたくないと思召になったものであろう。主人が声高[こえたからか]に、天主の尊前に出て恭しく拝礼せん、と唱え出すと急に私の前半生が雷光[いなずま]の如く眼前に浮み出た。斯んなに尊い事を曰って貰った覚えも、優しい案内を受けた例[ためし]も是まで私には無かった。今は私でも祈れぬことはないようになった。さてその天に向って叫ぶ調子の立派なこと。その信、望、愛の宣言の堂々たること、天主に対し、他人に対し、己に対して犯せし罪を吟味し、その赦を願うのでも、夜の護衛を守護の天使にお托けするのでも、カトリック的親愛の印に親族、恩人、朋友、貧しきもの、災難に遭うもの、囚人、病める者、死に臨める者、仇敵[あだがたき]、生ける人、死せる人の為に祈るのでも、それから慈愛厚き父の御手に一身を投げ掛ける主祷文、強い勇ましい信仰を顕す使徒信経、覚えず涙の玉を宿させる天使祝詞でも、皆私の霊[たましい]が冀[こいねが]って居た所、私が俟[ま]ち望んで居た光なのである。柔かい、気持のよい基督教的平和、私が頻りに捜して居た平和、是までどうも分らないで、そんなものは無い、と頑張って居たその平和が、現に鼻先に突付けて見せられたのである。……斯の如く私は嘗て祈らない時があった。長い間、祈祷なしに一日を始め、一日を終って居たのだ。どんなにして生きて居たんだろう。どんなにして生きて行く事が出来たんだろう。あゝその当時、私は幾何[どれほど]の罪に汚れたか知らぬ。それでも主が御身を識り奉るの幸いをお与え下さったのは、感謝に堪えない。唯今では御足の下に跪かなくては、起きも臥しもされない。其所[そこ]に私は世のすべての快楽[たのしみ]を以て購[あがな]い得られぬ喜悦[よろこび]を感じ、希望を覚えるのである。」

家族一同声を合せて誦える祈祷が、如何なる感化を他の人にまで及ぼすかと云うことは是を以ても知られよう。なるほど多人数一緒に祈るよりも、一人で祈ったら、胸は静かに、心も散らず、熱心に祈られて余程気持が良い。然し一緒に祈った方が主の御心にも適えば御互の為にもなる。で従来[これまで]そんな習慣の行われて居る家庭では、どんな事があっても之を失わない様、未[ま]だ其所[そこ]まで行ってない家庭でも、なるべくそんな習慣を作るべく努力しなければならぬ。尤もそれが容易に出来ない家庭、父なり兄なりが全く信仰を抛棄[なげす]てゝ、少しも頓着して下さらぬ、一緒に夕の祈祷でも誦えるなんて夢にも望まれないと云う様な家庭もあろう。だが斯る家庭に在っても、母だの妹だのが、守護の天使にでもなった積りで、一緒に声を揚げて熱心に祈り、次第次第に父兄[ふけい]の心に信仰熱を煽り立てゝ上げねばならぬ。一時にその効果が顕れるものではないが、力を落すには及ばぬ。熱心に祈って止まなかったら、一度はその誠意[まごころ]が天に通って、終には家族一同、十字架の尊前に跪くようにして下さるに相違ない。

煉獄の霊魂の為にも祈る

煉獄の霊魂と云うは、皆主の忠臣・愛子である。一刻も早く天国に引上げて終りなく楽ませたいが主の思召である。如何せん、天国には一点の汚[けがれ]があってもそのまゝ這入[はい]らす訳には行かない。已むを得ず之を煉獄に留め置いて、その汚点[けがれ]を磨かせ給うのである。されば彼等の為に祈ったり、善行を献げたりして、その苦しい煉獄の中から之を救上げるのは大いに主の喜び給う所である。

其上、彼等は非常に困り果てた、如何にも可哀相な霊魂である。自分では一つの功徳を立て、贖罪をなすことすら出来ない。たゞ我等の助を待って居る。「我を憐み給え、我を憐み給え、せめて汝等わが友よ」(ヨブ一九ノ二一)と、頻りに我等の同情に訴えて居るのみである。其中には我等の懐しい親兄弟も居ないだろうか。無二の親友や恩人も居ないだろうか。それも我等故に、余り我等に甘過ぎたから、我等に躓かされて罪を犯したから、其為に苦しんで居るのではあるまいか。左すれば力の限りを尽して之を救上げるのは、我等が当然の義務だと謂わなければならぬ。

終に彼[か]の霊魂等[たち]を救えば、それが我等の為にも少からぬ利益となる。たゞ一杯の冷水を人に施しても、其報を失わないとするならば、況して彼の哀れな霊魂を、言うに言われぬ苦罰の中から救出してやったら、どんな報が戴けるだろうか。我等に救われた霊魂も、天国に昇った上では、決してその恩人の事を忘れないで、必ず熱心に祈って下さることは云う迄もない所であろう。

斯の如く煉獄の霊魂を救うのは我等の義務であり、それによって大した利益も蒙られる。して之を救うには、祈祷・善行・贖宥・殊にミサ聖祭を献げてやれば沢山なので、別段六ヶしいものでもない。贖宥の如きは、朝起きる時、一日中に蒙れるだけのを悉く煉獄の霊魂に譲る、と云う意向[こゝろあて]を定めてさえ置けば、一々思い出さなくとも可い。それに世の中には、親兄弟が亡くなると盛に葬儀を営むとか、壮大な石碑を建てるとか云う事には随分肝煎りながら、その霊魂の為にミサの一つも献げ、お金の少々も貧困者に施すと云う様なことには、一向頓着しない方が少くはない。せめて夕の祈祷の終になり彼の哀な霊魂等の為に、一片の祈祷を誦えることを忘れない様にして欲しいものである。

煉獄の霊魂を救うと共に、亦死に臨める人の為にも祈ってやりたいものだ。毎日、世界中には十四万からの人が死ぬと云うことだが、さて其人等の永遠の幸、不幸は息の根の絶えるその刹那に定まるのだと思って見給え。彼等を援けて善終を遂げしめるのは、信者たるものゝ等閑にしてならぬ所ではあるまいか。殊に隣近所にそんな病人でもある時は、たとえ未信者であっても、どうにかして之に救霊を得させる方法は無いものかと、出来るだけの力を尽して見なければならぬ。

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