2013.11.18

池長大司教様には
「常識」の名によって人を責める資格がおありか 2/4

責任のセンス

 私は「私は大司教様に資料の開示を求めない」と書きました。実際、私はその資料には大して関心がありません。
 と云うのは、私はこれを書きながら「日本」のために戦っているのではないからです。私が対面しているのは、前回も言いましたが、ただ「一高位聖職者の判断」です。

 さて、大司教様と「憂慮する会」との間に、今後何らかの進展があるとは、ちょっと思われません。
 では、大司教様はご自身として、今後どうなさるのでしょうか。

 今後も、「正定事件は日本軍によるもの」というお考えを、機会があれば、世間に披瀝なさるのでしょうか。
 ──私は、それでもいいと思います。

 そして、大司教様がそのようにお考えになる理由を、根拠を、訊いて来る人があった場合に、やはり大司教様は、それを詳らかにお出来にならないのでしょうか。
 ──私は、それでもいいと思います。

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 しかし、その時大司教様が「平気な顔」をしているならば、「それを示すことができなくて当然だ」と「涼しい顔」をしているならば、私は、それはまったくおかしなことだと思います。

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 大司教様が資料を開示できない不可抗的な事情が、実際、大司教様におありになるのだとすれば、まあ、それはそれで仕方がないとしましょう。仕方がないなら仕方がないのだから。
 しかしながら、大司教様が「私は正定事件は日本軍によるものと確信する」との発言をなさる限り、(1) その発言それ自体に一定の社会的責任性が発生していると考えられるから、そして (2) 本来は根拠が示されて然るべきだから、大司教様はご自分が資料を手にしていながら公開できないことに関して、人々に対し基本的に申し訳なく思わなければならないのです。「それを開示できなくて申し訳ない」というお気持ちぐらいは持っていなければならないのです。

 大司教様はその時、こうおっしゃらなければならないのです。

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 「本来なら、その根拠を示さねばならぬところですが、やんごとなき事情により、それができません。どうか御理解下さい。」

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 これが、大司教様の持つべき「責任のセンス」です。或いは「良識のセンス」と言ってもいいかも知れません。

 大司教様に対しておっしゃるべき言葉まで例示するなんて、私は傲慢でしょうか。私は大司教様に「頭を下げさせたい」のでしょうか。「下克上の喜び」とでも云ったようなものを味わいたいのでしょうか。(私はフランス革命ですか。)
 否、私はただ「道理」の点から申し上げているつもりのものです。

 だって、そうではありませんか。
 こんな事、「当り前」(=常識)ではありませんか。
 大司教様はその資料を単に誰かから「預っている」というわけではありませんよね? 「預っている」だけなら、或いは「私が勝手にそれを公開するわけにはいきません」と言えるかも知れません。しかし、そうではない。大司教様は、それに基づいて御自身として公的な発言をなさいました。だから、「開示」の問題は大司教様ご自身の問題でもあるのです。誰か──ご自身ではない誰か──に懸る問題であるだけではないのです。大司教様ご自身がご自身の胸を指して、「開示」の問題に関して「責任」をお感じにならなければなりません。実際上困ろうがどうだろうが、理念上そういうことになるのです。
 ところが、「憂慮する会」の出した上の報告──私はそれをほぼ実際のところだと信じますが──の中の大司教様は、「根拠開示」の問題は全て「資料提供者にかかる迷惑」の問題に振り替えてしまって、少しもご自身として「当事者意識」、つまり「責任感」をお持ちのようでありません。
 そして、それどころか、「開示できなくて当然だ」などと言ってフンゾリ返り、要求者を叩くのです。
 おかしくないですか?

純粋に考えて下さい

 大司教様は「あの時は感情的になっていたので」と言い訳なさることが出来ません。何故なら、「憂慮する会」の最初の公開質問状が行ってから大司教様が野村さんに電話を掛けるまで、ほぼ一ヶ月の時間があっただろうからです。お考えになる時間はあった筈です。その時間で、相手が「憂慮する会」であろうとなかろうと、そんなことからは離れて、問題を本質的に検討なさるべきでした。

 そうです、大司教様は「相手が相手なので」とおっしゃることが出来ません。あのような言い方、あのようなご対応は、相手が誰であろうとおかしいです。

 理念上の事を純粋に考えて下さい。
 即ち、その要求が「誰」から来たものかは脇に置くぐらいの余裕を持って下さい。

 大司教様ばかりでなく多くの人は、余りに「人間」であって、何時も何時も「誰から来たか」「誰が言っているか」ばかりを気にしています。しかし、理念上の事を純粋に考える場合、人間は或る意味「人間離れ」しなければなりません。ベタベタに「人間」であってなるものですか。理性的でなければなりません。純粋に考えて下さい。

 ここで、私自身が「理性的」な立場から申し上げているつもりのものであることを示すために、私の「憂慮する会」に対する見方を明らかにしておきたいと思います。つまり、私が「党派心」のようなものから申し上げているのではないと云うことを示すためにです。

 私は、「憂慮する会」に属していないばかりか、もしその会に属する幾らかの人が靖国神社に参詣するならば、「カトリック信者としては少しおかしい」と思う者です。
(その会の全てのメンバーがそうするものかは、私は知りません。)

 何故なら、それは何と言っても「神道」、私達にとって「異教」であるところのものだからです。これは余りにも明確な固い「事実」であって、本来どのようにも「料理」できるものではありません。
 (1936年の指針は世俗的な妥協の甘いお菓子です。もう少し弱めて言えば、特別の保護政策です。本来的なものではありません。)

 それに、「戦没者」のために祈りたければ、家でだって、御聖堂でだって、幾らでも祈れるではありませんか。

 私はこのような視点から「それはおかしい」と思う者です。「戦犯が合祀されているから」とか云うのではありません。それ以前の事です。宗教的観点からです。

 しかし、それでも、今回の件に関しては、彼らの要求に本質的におかしなところは何もない。──これは確かであります。
 私は彼らの仲間ではありませんが、この事だけは分かります。

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