2013.11.18

池長大司教様と「基本的人権」「人間の尊厳」  8/8

不思議の解明

十分な解明はできませんが。

 では、一体全体なぜ、彼らは「キリストの司祭」であるに拘わらず、左のようでなく右のようになってしまっているのでしょうか?

 

 私にははっきりしたことは分かりません。分かりませんが何となく、それは巷間(教会内部を含め)言われている所の「教会が過去犯した罪」なるものとも関係しているのではないかという気がします。

 参考1 高柳俊一神父, 西山俊彦神父

 彼らは「もし教会が過去、それほど人類社会に危害を加えたものならば、それは教会の意識の中に "非常に不足していたもの" があったからだ」と考えたのではないでしょうか。

 で、「その "教会に非常に不足していたもの" とは何か?」と考えて、その解答を見出そうとして、彼らは過去の教会権威者達の精神の中を探すでしょうか。つまり「教会の過去の罪」の原因を教えてもらおうと「教会の過去の権威」の方に振り向くでしょうか。
 そうしないでしょう。何故なら、上の参考1に見るように、彼らの目にとっては「教会が過去犯した罪」と「教会の過去の権威者達」(その代表は教皇様ですが)は深い関係にあるからです。有り体に言えば、「教会がそんな罪を犯したのは、教会権威者達に不足があったからだ」ということだからです。つまり、ここの段階で彼らは或る意味で「教会不信」になったでしょう。

 (今、「或る意味で」と言ったのは、「彼らは教会の "人間" の部分には不信になったかも知れないが、天主の秘蹟に対してはそうではないだろう」と想像したからでした。しかし考えてみれば、彼らは秘蹟にも不信になったかも知れません。何故なら、彼らの目には「秘蹟に携わる者が、実際、教会を多くの罪に導いた」ということだからです。だから、内心で「秘蹟だって人間を大して善に導かない。秘蹟なんて大したことない」と思ったとしても不思議ではありません。)

 だから、その探索の開始と同時に、彼らは或る意味「教会」の壁の外に出ることになります。解答を探して、彼らは教会の外に出ます。
 そして、そこで「基本的人権」「人間の尊厳」などの語に出会い、「そうだ、その通りだ、確かにこれらの理念が、過去の教会には "非常に不足していた" のだ。だからだ」となります。
 だから今、彼らは上の右の絵のようになっているのではないでしょうか?

 彼らは「過去の教会の罪」を再び地上に再現しない為の "力強い指標" を同じ「過去の教会」の中に期待できなかった。「過去の教会指導者達」の言葉の中にも、そして、或る意味「聖書」の中にも。
 そう、或る意味、聖書の中にも。何故なら、彼らの目にとっては「過去の教会指導者達は聖書を知悉していたに拘わらず教会を罪に導いた」ということだからです。それは裏を返せば「聖書の言葉も案外力ないものだった」ということであるかも知れません。彼らにとっては。
 そんな彼らにとって「基本的人権」や「人間の尊厳」と云った言葉は文句なしに力強かった。「現代人に物事を明確に教えるためには、このような現代的な言葉がピッタリだ」と彼らは考えた。

 彼らが聖書を疑えなかったとすれば、こう考えることになります──「教会が罪を犯したのは、これまでの教会権威者達の聖書の "読み方" が悪かったからだ。そこには何か "非常に不足したもの" があったに違いない」。そしてそれ故「聖書の "新しい読み方" が必要だ」となります。そして、ここに於いて「聖書の新しい読み方」と彼らの目には力強く見える「基本的人権」「人間の尊厳」などの現代的な用語が、彼らの中で結合します。
 だから今、彼らは上の右の絵のようになっているのではないでしょうか?

注)「イノセント」という言葉を二個も書き入れてしまいましたが、私は本当に「悪の次に厄介なのは人間のイノセントさだ」ぐらいに思っています。

 私の上の推理が当たっているとすれば、発端は「教会の過去の罪」ということになります。しかし、それは本当に確かなのでしょうか?

 とは云え、私は歴史という歴史に全く疎く、歴史的事実に即してモノを言うことができません。しかし「陰謀」と「人間心理」については必ずしもそうではないかも知れません。それで、私からは次のようなものを差し出しておきます。

(1) ベラ・ドッドの「予言
 この中で彼女は、共産党(ユダヤ/フリーメイソン/イルミナティと無縁でない)にとって「カトリックの教会人の心中に過去の教会についての "罪悪感" を喚起する」というのが主要な作戦の一つだった、ということを言っています。

 私はここで、頭の中に「過去の教会の罪」というものを大きく持っている神父様方に言いたいのです。

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 もし、過去の教会が実際、罪や過失と無縁でなかったとしても、他方、教会の敵が上のような作戦を持っているとすれば、私達は気を付けた方がよくないですか?

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 善は悪を嫌いますから、或る場所に悪が在るのを発見した場合、善は必ず(基本的に)それを指摘したがります。しかし、その逆は必ずしも真ならずです。つまり、悪の存在を指摘したがる動きは全て善から出るかと云えば、そうは言い切れません。一見「善」のように見える動きでも、その底には悪の動機が潜んでいるかも知れません。
 この世には色んな「腹」を持っている人達が居ます。
 神父様達は人間の「腹」を探ることがお得意ですか?

 「たとえ不名誉なことでも事実は率直に認める」
 今まで何度か引いている読売新聞の中の池長大司教様のお言葉です。彼の考える「日本軍の戦争犯罪」に関して言われたものです。「教会の過去の罪」に関して言われたものではありません。しかし、何に関してであれ、これが池長大司教様の基本姿勢でしょう。そして、このような姿勢は確かに、基本的には、「正直」「誠実」「公正」と云った性質と結びついたものと云えるでしょう。
 しかし、これだけでは、所謂「騙されやすいカモ」になってしまう恐れがあるのです。英語で言えば.. "easy mark" ですか。

 指摘された教会の過去の罪・過失・不足等の幾らかが、実際、何らかの事実性を持っていたとしても、その事と「善の陰にあり得る悪」という事は、二つの別の事柄です。私達はそれに応じて二つの眼を持っていなければなりません。「事実なら率直に認める。そうするのが当り前だ、人として当り前だ」という、腐すつもりはありませんが少し正義感の強い中学生なら持っているであろうような「まっすぐの気持ち」それ一つを持っていたとしても、もし私達の横に居る悪人達の「腹」に対して盲目であるならば、それ全体は酷い結果をもたらすということです。

注)しかし、そもそもこのように書きながらも私は、池長大司教様に関して言うならば、彼はそれほど「正直」でも「誠実」でも「公正」でもなく、「まっすぐの気持ち」を持っている人でもない、と思わざるを得ません。「憂慮する会」との一件を見れば。

 ベラ・ドッドがその「宣誓証言」の中で言った通り、教会人をして「これまでの教会」について恥じ入らせたかった者らが存在したのであり、今も存在するでしょう。
 なぜ彼らは教会人を恥じ入らせたかったのですか。恥じ入っている姿を見て愉快がるためですか。馬鹿おっしゃい。「これからの教会」を変えさせるためです。

余談)ちょっと次元が違うかも知れないけれど.. よくヤクザなどが相手の態度を変えさせようとする時、相手の不備を突き、「誠意を見せろ」などと言って、相手を或る種の誇張された「自己卑下」の状態に持っていったりしますよね。日本のヤクザよりは余程上品ではあるかも知れませんが、フリーメイソンなども同じような手を使うでしょう。この辺の心理操作術は蓋し普遍的です。

(2) このような事もあります。ユダヤ人の言葉とされます。

 我々は我々の子供の幾らかに対し、お前はカトリック教会の崩壊の為の一層効果的な方法を以て働かなければならない、教会の中に醜聞を作ると云う手法を以て、と露骨に仄めかしながら、彼等をカトリック組織に入らせたのである。

(…)

転向』ユダヤ人('convert' Jews

(…)

 我々は最も不名誉な中傷でカトリック教会の顔に泥を塗って来た。その歴史を汚し、その最も高貴な活動をさえ貶めて来た。我々はカトリック教会に、その敵の罪をさえ負わせて来た

(3) こういう "説"(と言っておきます)もあります。

ユダヤ人悪逆非道の最残酷例「スペインの異端審問」

 ユダヤ人の残虐非道のもっともひどい例の一つが、スペインの異端審問であった。
 ふつうは「カトリック」の現象として非難されているが、異端審問はそもそものはじめからユダヤ人の行なったことだった。そして犠牲者のほとんどは善良なキリスト教徒だった。
 当初の目的は、ユダヤ共同体の成員を「マラーノ」〔中世スペイン、ポルトガルで迫害を逃れるためにキリスト教に転向したユダヤ人〕、つまり偽装キリスト教転向者にならないようにすることだった。
 多くのユダヤ人は非ユダヤ人と商売する機会を増やすために、名目だけのキリスト教徒になっていた。スペイン、ポルトガルではマラーノ運動が広がり、シオンの長老たちはこれを阻止しなければならないと決定した。例によって、シオンの長老たちは、汚い仕事を代わりにやってくれる非ユダヤ人を利用したのである。長老たちにとって、彼らの邪悪な目的のために教会を利用するより自然なことがほかにあっただろうか。
 このとき、トルケマダ〔一四二〇〜九八。ドミニコ会修道士、スペインの異端審問所初代長官でマラーノ。異教徒に対する弾圧を実施した〕が目ざましい勢いでスペインのカトリックの位階を昇進していた。多くのユダヤ人がカトリックの高位に就いた史実が証明しているように、当時の教会は反ユダヤではなかったのだ。
 一四八三年、まさにこのとき、スペイン政府はイサク・アブラバネルというユダヤ人を国家財政長官に任命した。それはグラナダからユダヤ人たちを追い出す資金を集めるためだった。
 これらの事実が示すように、スペインは異端審問当時、反ユダヤ国家とはとても言えなかった。ところがユダヤ人は、教会がマラーノを迫害せざるをえなくする計画をまんまと編み出したのである。「多くのマラーノたちが実際にはキリスト教徒ではない」と、トルケマダは教会の上司に報告した。それはまったくその通りだった。そしてさらに、マラーノたちがまだユダヤの聖物を家のなかに所持しており、それに生け贄を供えていることを知らせた。
 司祭たちはそのような涜神行為にショックを受け、どうしたらよかろうとトルケマダに訊ねた。トルケマダは、マラーノをカトリックの審問会に引き出し、彼らが帰依を装っているキリスト教信仰に対する裏切りについて問いただすことを提案した。司祭たちはこれに同意し、トルケマダがこの考えの発案者であったので、彼らはトルケマダを異端審問の責任者に指名した。
 二、三週間のうちに、トルケマダは何百人ものユダヤ人、そしてまた多くのキリスト教徒を異端審問所へ召喚した。トルケマダはカトリックの異端審問の名のもとにスペイン中に秘密警察を設立し、酸鼻きわまる拷問に人びとをさらしはじめた。
 司祭たちはこれを知ると恐れおののいた。司祭たちがトルケマダを諌め、イエス・キリストの名においてそのような邪悪な行為をやめるよう懇願すると、トルケマダは平然と微笑みかけて、こうつぶやいた。

 「ひょっとすると、あなた方の信仰も揺らいでおられるのでは?」

 自分たちもまたトルケマダの異端審問にかけられることがありうる、というこの大胆な脅しを受けて、司祭たちはトルケマダが仕事をつづけるのを黙って見ているほかなかった。トルケマダは、異端審問にかけられたすべての人びとの財産を没収することで、大勢のスパイの活動資金をまかなった。なぜなら、犠牲者たちは常に罪を自白したからだ。
 これまで数世紀にわたって教会は異端審問の罪を強く非難されてきた。しかしトルケマダにこのような残虐非道な行為をさせないようにしようとした司祭たち自身が、火炙りの刑に処せられていたのだ。ユダヤ人はいつものように、自分たちの犯罪の責任をほかの者に押しかぶせたのだった。
 トルケマダの影響はすぐにカトリック教会の最高会議に滲透した。そしていくつかの国では、働く民衆の迫害手段へと異端審問を転用した。異端審問はイエス・キリストの教えと何ら関係がないばかりでなく、ほとんどのカトリックの指導者たちはそれを忌み嫌っていた。にもかかわらず、指導者たちは事態を変えるだけの力がなかったのである。

 ユースタス・マリンズ氏は典拠を示していません。だから私もこれを一つの「説」としてここに置いておくしかありません。
 けれども兎に角、彼がユダヤ人の(その中の悪質な者らの)特性として描いた「自分たちの犯罪の責任をほかの者に押しかぶせる」という言葉は、一つ前の引用の中でユダヤ人自身が言ったとされている言葉──我々はカトリック教会に、その敵の罪をさえ負わせて来た──と一致していることには注目して下さい。

 カトリック聖職者の中には「博識家」が、また平信徒の中にもなかなかの「勉強家」が、居るものです。しかしそれでも、人類歴史というものをあまり甘く見ない方がいい、と私は言いたくなります。人類歴史の中には、おもての記録からはなかなか窺い知れない、闇に覆われた層が、かなり分厚く存在するに違いありません。

 参考2 四王天延孝講演「フリーメーソン秘密結社について
 参考3 フラウィアン・ブレーニエ著「ユダヤ人とタルムード」  

 これでこのシリーズを終ります。かなりの分量を書きましたが、結局、私の言いたい事は下の一文↓につづまります。

殆ど「共通善」だけを強調して終いにするような打ち出し方、殆ど「共通善」だけで十分であるかのような、或いは殆ど「共通善」だけが「キリストの教えの核心」を成しているかのような口振り──これらは全くもって「フリーメイソン的」と言われるべきです。

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