万人救済論
池長大司教様の言葉として既にこれを紹介しました。
神は罪人をも結局は救いあげるものとして存在しておられる。
これは「神は罪人をも結局はすべて救いあげるものとして存在しておられる」という意味だろうということも書きました。参照
そして、追加です。大司教様はこうもおっしゃっています。
十字架でキリストがすべての人のあらゆる罪を償われた。
嘘じゃないですよ。大司教様はそのようにおっしゃっています。この言葉は「引用」です、正確な。(後で紹介します)
私はこう思います。
上の二つだけの言葉に依っても、池長大司教様は謂ゆる「万人救済論」の考えの持ち主であると云うに十分である。
Wikipedia から
万人救済主義
これは、すべてが神のあわれみによって救済を受けるという教理、信仰である。すべての人が、結局は救済を経験するとし、イエス・キリストの苦しみと十字架が、すべての人を和解させ、罪の贖いを得させると断言する。
私らしく、どぎつく書きましょう──
しかし、それは「異端」なんじゃないですか?
日本カトリック司教協議会の「(前)会長」が異端者。
それも何十年も前から。
もっとも、遠藤周作氏によれば、「異端」という言葉は「もはや今日のキリスト教では、無意味になってしまった」のであり、誰かのことを「異端者」と呼ぶこと自体が「傲慢」を意味するようですが。
(参照:『私のイエス—日本人のための聖書入門』 pp. 236-237)
つまり、「道徳性」の問題と「真実性」の問題の峻別を知らないのです。
私達は池長大司教様に彼の使った「すべて」と「あらゆる」という言葉が具体的にどういう意味か──どういう「範囲」か──どこからどこまでを指すのか──を聞くまでは、彼を「万人救済論者」と呼ぶことを差し控えるべきでしょうか?
私は、あまりそう思いません。
だって、上の言葉の "姿" をもう一度見て下さい。
しかし、もし必要なら、再びどぎつく、こう言いましょう──
では、大司教様、その「すべて」と「あらゆる」という言葉が具体的にどこからどこまでの範囲を指すのか御説明下さい。
説明できるものなら。
あなたはきっとモグモグする(口を濁らす)しかないのだ。
さて、その言葉の在り場所を示します。
その言葉は1998年にバチカンで持たれた「アジア特別シノドス」のために大司教様が発題なさった「文化史の中の宣教」と題された御文章の中にあります。
それは公開されています。
・中央協議会「アジア特別シノドス 報告」(PDF) pp. 14-18
・京都教区時報1998/11 No.252
細かいところは各自お読み頂くとして、私の目に付いたところを書きます。
まずこれです──「父性的」「母性的」「遠藤周作」。
そうです、90年代のこの御文章の中にもそれらの言葉が重要なキーワードのように存在します。そして池長大司教様は今現在も同じ事を繰り返しておられるわけです。(Part 3 参照)
そして、その中で、大司教様はこんな事をおっしゃっています。
(1) 「十字架でキリストがすべての人のあらゆる罪を償われた」 とあります。
(2) しかも「...という救済論」と続けています。あたかもそれがカトリックの標準的な(高度な、でもいいですが!)救済論ででもあるかのように。
(3) そして、これらは「聖書が描く神そのものの姿」である、と結んでいます。
「宇宙に満ちる」「全てを抱擁し包み込む」「限りない」
これらの「感覚的」な言い方、そして「強調的」な言い方。
神の愛を高く挙げているので、また広く拡げているので、一見良さそうに見えます。しかし、本当はそうとも限らない。善意の表現はいくら強調されても強調され過ぎるということはない、ということにはならない。常に〈他との関係〉ということで見ていかなければならない。(参照: 教訓、或いは常識、「善」 に目を奪われるな)
そして、言葉というものは気の抜けないものである。
もう少し細かく見てみます。
「宇宙に満ちる神」
或る意味ではそう言えるでしょうが、しかしまた別の意味では、例えば「神は『地獄』の領域にはおられない」とも言えるわけです(その前に「地獄とは何か」について論じなければなりませんか? しかし、ここでは省きます)。また「『大罪』の領域にもおられない」とも言えるわけです。つまり、「私達信者であっても、大罪を犯したなら、告解の秘蹟を正しく受けるまでは、私達の内には神の霊はおられない」とは、公教要理も言うところのものです。その意味では神は宇宙に「満ちて」はいないということを* 池長大司教様は言わなければならないと思います。
* そのような "言い方" もできるということを。
しかし、人間にとって "言い方" の問題は単に "言い方" の問題ではありません。それは些末な事ではありません。言葉の使い方がアバウトな人は "判断" そのものがアバウトなのだと思います。私も偉そうなことは言えないけれど、池長大司教様は余りに言葉の表現というものに無神経だと思います。あたかも「愛」だけを "まくし立てたい" からそうなっているかのように。
もちろん、全ての罪人が神の「関心の内」にはあります。また、ひょっとしたら地獄も、何らかの形で神の「関心の内」にあるかも知れません。そういうことを称して「神は宇宙に満ちる」と言うことも許されていいかも知れません。それを認めましょう。
けれども、これははっきりしています──
「神は宇宙に満ちる」という唯一つの言い方をもって "全て" を言った気になることは許されません。
「全てを抱擁し包み込む神」「神の限りない優しさ」
これらに関しても同様です。「全て」とか「限りない」とかいう語を含むこれら一連の(あたかも "畳み掛ける" 形式の)「表現」が一体どのような「現実」(具体性)を指し示すものであるかを知るまでは、私達は安易に頷くわけにはいかないのです。
「十字架でキリストがすべての人のあらゆる罪を償われた」
私達信者は「天主の御恵みにより信仰を得、信仰宣言をして洗礼の秘蹟を受ける」というプロセスによって御子イエズスの贖いの御業の効力を我身に受けました。
しかし、そのようなプロセスを通らずとも「すべての人のあらゆる罪」が償われるものなら、私達の洗礼とは一体何のためだったのでしょうか。
信者が受ける「主の贖いの御業の効力」と、未信者や異教徒や無神論者やサタニストやの「すべての人」が受ける(らしい)「主の贖いの御業の効力」の違いを、教えて頂きたいものです。
それとも...「同じ」なのですか?
注)本気で「教えて頂きたい」と思っているわけではありません。
万人救済論はなぜ悪いか
(1) 何よりも、それは真理と合致しないから。
(2) 人々の意識を無警戒に、弛緩に導くから。
(1) 例えば、もう何度も引きましたが、天主の聖言[みことば]に「永遠の刑罰」というものがあります。
そして、考えるべき事は簡単です、即ち、
ということです。
一万歩譲って仮に真実がそうだったとしても、それは私達には確かめようがありません。「確かめようがないこと」を、大司教様のように断定調で言うべきでしょうか。「確かめようがない」ならば、天主様の聖言を、つまり聖書の言葉を、その "姿" そのままに受け取ることが「まっとう」なことではないでしょうか。そして「謙遜」なことではないでしょうか。
もう一度、その聖言の "姿" を見ましょう。
こうして、この者たちは永遠の刑罰に、正しい人たちは永遠のいのちに入るのである。
池長大司教様はこの聖言をどう「料理」したのか?
どこの収納庫に押し込めてしまったのか?
「十字架でキリストがすべての人のあらゆる罪を償われた」とは!
信仰の勝手な料理人
もう一つ挙げておきましょう。今度は黙示録から。
しかし、臆病者、不信仰な者、忌むべき者、人を殺す者、みだらな者、魔術を行なう者、偶像を礼拝する者、また、あらゆる偽りを言う者どもの分け前は、火と硫黄との燃える池にある。これが第二の死である。
(池長大司教様にとってこの聖言は何ですか。黙示録記者の "脳髄" から出たものですか。彼が住んでいた地方の "伝統" から来たものですか。)
池長大司教様、私がこの種の聖言を何度も取り上げるからと云って、「この人は神の厳しい側面を過度に強調している」などと "誤魔化し" を言わないで下さい。私は、必要なら、例えば「新約聖書の中には神の御憐れみの面に関する記述が八割、神の裁きの面に関する記述が二割」とでも認めることができます。私が私の書く記事の中で神のお厳しい聖言を取り上げることが多くなるのは、一重に、池長大司教様などの現代的な聖職者達がその「二割」を不当に無視、実質的に無視しているからに外なりません。つまり、あなた方こそ聖書の或る面に関して「不当な過度の強調」をしています。「八割」をあたかも「十割」となし、残りの「二割」に対しては不当な、謂わば "マイナスの強調" をしています。しかし、そうではなく、あなた方は「正確」であるべきです。即ち、それが「八割」なら「八割」と言い、しかし残りの「二割」もちゃんと取り上げるべきです。
(2) に関しては説明不要だと思います。