2014.01.04

司祭の心を迷妄に導く現代世界憲章 Part 2

非論理的

 同じくこの箇所である。

2-キリストは人間の高貴な召命を明らかにした

すなわち、人間となってこの世に来られた神の子キリストは、そのこと自体によって人類に結ばれた真の人間である。公会議は言う。「神の子は受肉することによって、ある意味でみずからをすべての人間と一致させた」(現代世界憲章 22)。そしてキリストは、結ばれた人間を代表して罪を償い、神への愛を貫いて復活し、神のもとに帰ったのである。つまり、キリストを通して人類はすでに根源的に救われており、その高貴な召命を全うしたのである。残るのは、この救いが一人ひとりの人間に適用されて、一人ひとりがキリストを信じて神の愛にこたえ、命を神と人とに捧げて人生を全うすることだけである。

 私は司教様のそのページで次のように質問した。

疑問なのですが・・・

投稿者 無名ユーザ 投稿日時: 2013年12月22日 18時39分

よろしくお願いします。カトリックの平信徒です。

「キリストを通して人類はすでに根源的に救われている」ということの意味がはっきりと分からないので、質問させて下さい。それはまた、「残るのは、この救いが一人ひとりの人間に適用されることである」という言い方が分からないということでもあります。

つまり、素人の頭では、「キリストを通して人類はすでに根源的に救われている」なら、「一人ひとりの人間に於いてこの救いが適用されるかどうか」の問題は「残っていない」のではないかと思われるのです。

「キリストを通して人類はすでに根源的に救われている」ということは、すべての「一人ひとりの人間」がすでに救われているか、あるいはやがて必ず救われるということですか?

「残るのは、この救いが一人ひとりの人間に適用されることである」ということは、「その救いが適用されない個人も出てくる」ということですか?

また、「救いが適用されない」という言い方は「救われない」と言い換えてもいいのですか?

 私がコメントを投稿したのは暮れも押し迫った12月22日である。そして今はまだ正月である。司教様がすぐに御回答を返すことがお出来にならなくても不思議ではない・・・と思ったが、司教様は同じ12月22日と元日に新記事をアップしておられる。御回答をお返しにならない理由は分からない。或いは私の質問に気づいておられないのかも知れない。しかし、私は司教様の御回答を待たずにこの記事を書く。

 読者はひょっとしたら、上の私の質問の情景を見て、私が混乱しているように思ったかも知れない。しかし、私としては混乱しているつもりはない。
 私は、司教様こそが混乱・・・と云うか、そもそも「論理」というものに全く留意されないままお書きになったのではないか、と思い、上のように言ったのである。

 言い直しておこう。つまりはこういうことである。

 司教様は「人類はすでに根源的に救われている」と書き、且つ「一人ひとりの人間にこの救いが適用されるかどうかの問題が残っている」と書く。

 しかし、「人類はすでに根源的に救われている」なら、すべての「一人ひとりの人間」は、たとえ全く放って置かれても、いずれ必ず救われるだろう。一人残らず。

 だからその時、「救いが適用されるかどうか」の問題は「残っていない」と言われなければならない。

 別の事を言いたいのだったら別の表現をしなければならない。

 私は本当にこう思う。

「人はしばしば自分でも何を言っているのか分からないことを言うものである」

 或いは、Part 9 で言ったことを繰り返したい。

「ご自分が何を言っているのかご存知なのでしょうか。つまり、ご自分の口から出たこの言葉がどのような "現実" を意味することになるのかをちゃんとイメージしておられるのでしょうか」

 彼らの言葉は私の中で「現実的な像(image)」をきちんと結ばないのである。

 司教様はこんなことも書いておられる。(下線は管理人)

人類を救うために人間となってこの世に来られた神の子キリストは、神とその被造物である人間が何者であるかを啓示されたが、それによれば、まず、神は父と子と聖霊の三位一体の神であって、三位の尊い交わりの中で至福のいのちを生きておられる。そして人間は、神にかたどられ、神の似姿として造られて(創世記 1,27参照)、神の子らとして一つになるように召されており、それはあたかも三位の神が一体であるように、人間は、その個別性においては多数であっても、その本質においては一つなのである。

 私は最初、ここに「本質」という言葉を持って来た司教様の感覚が分からなかった。しかし、程なく納得した。彼は「キリストを通して人類はすでに根源的に救われており、その高貴な召命を全うした」と言った人なのだった。

 「本質」とは〈根源的〉なものであり、また〈不変〉のものである。彼が「人間はその本質においては一つなのである」と言う時、それは「人類はキリストを通して既に根源的に "一つ" に結ばれており、以後それは不変である、失われることはない」と言っているのである。

 しかし、それでいて、「この救いが一人ひとりの人間に適用されるかどうか」の問題が "残っている" ようにも書くのである。
 「救いの適用」である。と云うことは、「救いの不適用」ということもありそうである。だから、私はコメント欄で「『救いが適用されない』という言い方は『救われない』と言い換えてもいいのですか?」と訊いたのだった。

 私には司教様が何を考えておられるのか分からない。

現代世界憲章 (Gaudium et Spes)

日本語版全文(外部サイト、タイプミス多し)

各国語版入口(バチカン公式サイト)

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