2014.01.04

司祭の心を迷妄に導く現代世界憲章 Part 4

カテキズムにまで浸潤している

(当然のことながら)

 私は現在のカテキズム(『カトリック教会のカテキズム』)を持ってはいるがほとんど読んでいない。
 今回少し読んでみた。やっぱり酷いや。

1701 「キリストは、父とその愛の秘義を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにします」2)。人間は、「見えない神の姿」(コロサイ 1・15)であるキリストにおいて、創造主に「かたどり、その似姿として」造られました。そして、あがない主であり救い主であるキリストにおいて、原罪によって人間のうちでゆがめられた神の似姿はその原初の美しさを取り戻し、神の恵みによって高貴なものとされたのです4)

2)『現代世界憲章』22。
4) 同 22。

英文

 最後の文
「キリストにおいて(in Christ)、原罪によって人間のうちでゆがめられた神の似姿はその原初の美しさを取り戻し、神の恵みによって高貴な(noble)ものとされた」

 私はこの文を読んで、二つの不満を抱きます。
 一つは、表現が抽象的で、何を言っているのか判然としないために、結果的にあまり批判を受けないかも知れないということ。
 もう一つは、勿論、言っていることが真理ではないということ。

 あなたは上の文が何を言っていると思いますか。
 私は最初、このように惑いました。
 「その "原初の美しさを取り戻された神の似姿" は〈どこ〉にあるのか。どこかの神秘的な空間にか。観念の世界にか」
 「この文は、イエズス様が全人類のために "ゆがめられた神の似姿を取り戻すための筋道" を作って下さった、ということを言っているのではないか」(従来的な理解)

 しかし、糸永司教様の言葉や現代世界憲章の言葉に照らしてみて、そういうことではないと気づきました。
 即ちこの文は、「キリストにおいて、原罪によって人間のうちでゆがめられた神の似姿は、実際に全人類において、その原初の美しさを取り戻し、神の恵みによって高貴なものとされた」と言っています。つまり、「今から約二千年前、文字通りの "全人類" が、キリストのお陰で、原初的な美しい神の似姿を取り戻した」と言っています。
 一昔前のカトリック信者が読んだらひっくり返るような事を、このカテキズムは言っています。

「原罪によって人間のうちでゆがめられた神の似姿はその原初の美しさを取り戻し、神の恵みによって高貴なものとされた」
 であるならば、今や私達は、洗礼の受ける際、原罪を特に赦される(取り除かれる)必要は「無い」ということになりませんか。
 "しるし" としてその儀式を続けるとしても、まあ、実質的には、今やその秘蹟は絶対に無ければならないというものではないんだ、ということになりませんか。
 (まさしくそうなのだろうと思います。この文は、人類を祝福し、神に感謝を捧げながら、秘蹟の必要性を低めようとしています。)

618 十字架の死は、神と人との唯一の仲介者であるキリストの比類のないいけにえです。しかし、キリストは、人となられた神のペルソナにおいて「ある意味で自らをすべての人間と一致させ」503)られたので、「神のみが知っておられる方法によって、すべての人に復活秘義にあずかる可能性を提供されます」504)

503)『現代世界憲章』22。
504) 同 22。

 気のいい聖職者はその「可能性」を人類のために喜ぶ。
 しかし、その態度は間違っている。

 「可能性」ということは、「あるかも知れないし、ないかも知れない」ということである。つまりそれは「不確実性」である。

 聖職者の使命は「可能性」や「不確実性」と結び付いていない。聖職者の使命は人々に救いの "確実なところ" を提供することである。だから、こんな言葉に喜んでいる(喜ばされている)聖職者は「頭が軽い」と言われるべきである。

現代世界憲章 (Gaudium et Spes)

日本語版全文(外部サイト、タイプミス多し)

各国語版入口(バチカン公式サイト)

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